魔法の花嫁
4.花嫁は誰
「どうしたの!」
エイミは床にひざを着いた。
倒れた魔法使いは、目を開けたまま横たわっている。顔も手も、まったく動かない。
開いた目は、二つの石のようにただ宙を見つめている。
「ちょっと。いやだ。どうしたの? ねえ、しっかりしてよ!」
揺さぶっても呼びかけても、青年の唇は開かない。
エイミは血の気を失って、とっさに叫んだ。
「空気の精!」
顔を上げて、何もない空気の中に呼びかける。
「ねえ、ここにいるんでしょう? 返事して! あなたたちのご主人が大変なの!」
少しの静寂。
そして、歌が聞こえてきた。
大丈夫です、落ち着いて
ご主人様は生きている
死んでいるけど生きている
「……どういうこと?」
ようく見なさい、その手もと
あなたは勇気と知恵がある
ご主人様を助けなさい
ようく見ること、考えること
それがあなたにできること
「そんなこと言われたって……」
空気の精たちの遠まわしな言い方に、エイミはいらいらする。目の前で人が倒れて、ただでさえあせっているのに。
「ようく見なさいその手もと?」
魔法使いを観察しなさいということだろうか。
彼は仰向けに倒れたまま、びくともしない。
表情も動かず、目は見開かれたまま。
どこか怪我をしているわけではなさそうだ。苦しんだり痛がったりもしていない。
でも、気を失っていることは確かだ。どんなに叫んでも答えない。
これではまるで、魂の抜けた体だ。人間そっくりの人形のような……。
「……人形?」
エイミはくり返した。
空気の精たちが、再び歌い始める。
ようく見ること、考えること
それがあなたにできること
ご主人様の命の源(は
あなたの目に付くとこにある
エイミは恐る恐る、魔法使いの顔に触れた。固まった額に触れ、前髪をかき分け、頬をたどる。
初めて会った時に、触れた手と同じ。なんて冷たい、なんて血の気が感じられないんだろう。
エイミの手は青年のあごを伝い、首筋に渡った。硬い、陶器のような肌。
黒髪を払うと、その奥で何かが触れた。覗き込んで見てみると、鍵穴のような小さな空洞が、首筋に開いている。
エイミはとっさに、魔法使いの服を見た。ためらいがちに胸ポケットを探る。
「……あった」
取り出したそれを、エイミはしげしげと眺めた。
ゼンマイだ。
「死んでいるけど、生きている……」
突然動かなくなり、倒れた青年。
まるで人形のような顔、手、声。
エイミはゼンマイを青年の首筋に入れ、ゆっくりと回した。一回、二回。違和感は何もない。
三度目に回した時、ゼンマイは止まった。エイミはそれを引き抜いた。
目を移すと、青年はすでに動き出していた。ゆっくりとゆっくりと、彼は起き上がった。
上半身を起こした魔法使いは、エイミに顔を向ける。倒れていた間と変わらない、いつもの無表情だった。
「あなた……」
エイミは、つぶやいた。
「人形なの?」
青年はまったく表情を変えず、唇だけ動かした。
「はい。私はゼンマイじかけの人形です」
ティーポットが空中で傾いて、カップの上にお茶を注いだ。ソーサーがカップを載せて、エイミの前まですべってくる。
「ありがとう」
エイミは言って、カップを手に取った。
テーブルの向かいには、魔法使いが座っている。彼の前にあるティーカップは空のままだ。
「あなたのお茶は……」
エイミは言いかけてやめた。
「……飲めないのね?」
「私はその必要はありません」
人形だから。
エイミは、あらためて彼を見つめた。
つくりもののように整った顔。
ほんの少しも動かない表情。
黒い二つの目は宙を見つめたまま、まばたきさえしない。
機械みたいな言葉づかいも、握った手が冷たいのも、みんな彼が人形だから。
今、目の前にいるこの人は、エイミと同じ人間じゃない。
エイミは、なんと言ってよいかわからなくなった。けれども魔法使いも黙っている。沈黙が気まずくなって、声につまりながら、こう聞いてみた。
「あなたをつくった人は?」
返ってきた答えは、予想に反していた。
「私はつくられた人形ではありません」
「え?」
「私は元は人間でした」
「どういうこと?」
「私は長い間魔法の修行をしていました。しかし私はある日失敗して自分の魔法にかかりました。私はそれから人形になりました」
「……自分の魔法に?」
青年はうなずきもせず続けた。
「これは罰です。私は自分の魔法を過信して研究のためだけに使い人の役に立てようとしませんでした。だから魔法の力が私に罰を与えました」
「それで人形になったっていうの……?」
エイミは、言葉につまった。
魔法は使い方を間違えれば、かけた本人に思わぬ害をもたらすことがある。アロイーゼや、他の村の魔法使いも言っていた。
でも、この青年にかけられたのが、魔法の罰?
「ねえ」
エイミはためらいながらも、青年に聞いた。
「人形って、辛い?」
「私はわかりません」
「そのしゃべり方も、魔法の罰のせいなの?」
「はい」
「笑ったり泣いたりすることはできるの?」
「いいえ。私はできません」
「嬉しいと思ったり、悲しいと思ったりすることは?」
「私はできません」
「人を好きになることは?」
「私はできません」
エイミは見つめた。
彼は、人形になった辛ささえも、自分ではわからないのだ。
隣には、彼が魔法で咲かせた光の花が輝いている。
こんなに美しい魔法が使える人なのに、自分でそれを感じることはできないのだ。
エイミは彼の黒い瞳に見入った。
底のない深い闇。
目も鼻も、唇も頬も髪も、人間と何も変わらないのに。彼の体にはもう、血が流れていないのだ。
「だからこんなに冷たいのね……」
エイミは思わず、青年の頬に手を伸ばした。
魔法使いの視線が動く。
エイミははっとして、慌てて手を引っ込めた。
「ご、ごめんなさい」
「いいえ」
魔法使いは少しも慌てていない。エイミはちょっと寂しくなった。
気まずい空気をなくすために、まず紅茶を飲み干す。
カップを置いてしばらくすると、彼女はとっておきのことを思いついたような気がして、口を開いた。
「ねえ、あたしがキスしてあげましょうか?」
「それはどういう意味ですか」
「魔法にかかった王子様はね、お姫様のキスで人間に戻るものなのよ。どんなおとぎ話でもそうでしょう?」
「その話に根拠はありません。あなたは私にキスをする必要はありません」
魔法使いは何の感動もなく、即答した。
エイミはやっぱり、ちょっとだけ寂しい。半分冗談とはいえ、いい考えのような気がしたのに。
「……そうね。何の根拠もないわね」
言葉に出してみると、がっかりした気持ちがますます強くなる。
「……それに、あたしじゃ役として不足よね。魔法をとくなら、もっときれいな女の子じゃなくちゃ」
例えば、アリエとマリラのような。
心の中でつぶやいたエイミに、魔法使いが何気なく言った。
「あなたはきれいです」
「――は?」
「あなたはきれいです」
青年はくり返した。
一瞬、目を丸くしてから、エイミは思わず吹き出した。
「ありがとう。でも、無理してほめることないのよ」
「私は無理をしていません」
魔法使いの言葉に、エイミは笑いを止める。
そうか。この人がお世辞なんて言うわけがない。
「ありがとう。気持ちはいただいておくわ」
なんだかくすぐったい。人からきれいなんて言われたのは、初めてかもしれない。
妹たちはとってもかわいくて、姉さんのエイミはちっとも似ていない。
そう言われることはあっても、エイミ自身がほめられることはなかった。別に気にしてなんかいなかったけど、言われてみるとやっぱり嬉しい。
「でもね、あたしの妹たちはもっとかわいいのよ」
エイミの語りは無意識に、妹のことに移っていた。
「双子でね、十三歳になったばかり。金色の長い髪に青い目で、それはもうお人形さんみたいよ。自慢の妹たちなの」
「あなたもきれいです」
「ありがとう。でもあたしなんかより、妹たちはもっと……」
「こちらに来てください」
エイミの言葉を無視して、魔法使いは突然、立ち上がった。
何も考えずに彼に習ってから、エイミは首を傾げる。
魔法使いはエイミを、奥の壁ぎわまで連れて行った。
壁には、大きな鏡が立てられている。魔法使いと並んで、エイミの姿がそこに映った。
くせの強い赤茶色の髪。さっきまで掃除に走り回っていたから、いつもにも増してぼさぼさだ。
着ているものだってひどい。エイミは動きやすい服が好きだから、古いエプロンドレスを数着しか持っていない。それもほこりやすすで汚れて、あちこちつぎはぎも当ててある。
「なあに?」
エイミは隣の魔法使いに聞いた。
「目を閉じてください」
「何なの?」
「目を閉じてください」
エイミは半信半疑で、言われたとおり目をつむった。
「私はあなたに少しだけ魔法をかけます」
耳元で、魔法使いの声がする。
光の精の鱗粉、咲きたてのバラの花びら。
太陽の光はシャンデリア、風はやさしい琴の音。
愛の女神の力を借りて、枯れかけたつぼみも美しい花を咲かせます。
魔法使いの指が鳴る。
その瞬間、エイミの目の中で光が散った。
「目を開けてください」
エイミはゆっくりと視界を開く。
その時、目の前にはとてもきれいな娘が立っていた。
小麦色のなめらかな肌に、頬はうっすらピンク色。豊かな巻き毛はまとめて肩に垂らされている。
首も肩もほっそりとやさしく、健康的な腕がすっと伸びている。身を包んでいるのは、若草色のエプロンドレス。
エメラルドブルーの二つの瞳が、まっすぐエイミを見ている。
エイミが近付こうとすると、娘も一歩前に出た。
そこで初めて、エイミは、彼女が鏡に映った自分だということに気が付いた。
「これ、あなたの魔法?」
「そうです」
鏡の中で、魔法使いが隣に立った。
「すごいわ。あたしじゃないみたい」
エイミは感嘆の声をあげる。ちょっとだけ、皮肉を込めながら。
「私はあなたをきれいにしたわけではありません」
ところが魔法使いはこう言った。
エイミは彼を見上げる。
「え?」
「あなたはもともときれいでした。私はあなたの美しさを引き出しただけです」
「……」
エイミは黙って、青年と鏡の中の自分を見比べた。
確かに、どこがものすごく変わったというわけでもない。
つぎはぎこそ消えたが服はエプロンドレスのままだし、顔だって別にお化粧もされていない。髪はただまとめて垂らしただけ。健康的な肌も手足も、エメラルドブルーの瞳も、エイミが前から持っていたものだ。
「でも、不思議ね」
エイミは歩み寄って、鏡の中の自分にそっと触れた。
「これがあたしだなんて」
「これがあなたです」
魔法使いは鏡を見て淡々と言った。
視線をずらすと、鏡の中の彼と目が合った。
エイミは思わず微笑んだ。
「あなたは、すごい魔法使いだわ」
その日も夕方になって家に帰ると、アリエとマリラはまた若者たちに囲まれていた。
「あんたたち! もう遅いんだから、帰ってちょうだい!」
エイミは妹たちを腕にかばって、若者たちに叫ぶ。
けれども彼らはいつものようにびくつかず、ぽかんと口を開けてエイミを見ていた。
当のエイミはまゆを寄せる。
「なあに? もっと怒鳴られたい?」
「え……いや」
若者の一人が目をそらした。気のせいか、顔が少しだけ赤くなっている。見ると、他の者も同じだった。
「じゃあ、僕たちはこれで」
「舞踏会を楽しみにしてるよ」
「ぜひとも三人で来てくれよな」
散っていく彼らの背中を見送って、エイミは首を傾げる。
「何かしら。変な人たち」
「姉さんがきれいだから、びっくりして照れていたのよ」
アリエの言葉に、エイミ姉さんは顔をしかめた。
「は? まさか」
「本当よ。今日の姉さんはきれいよ」
「そうよ。きれいよ」
妹たちは口々に言った。
「舞踏会では、素敵なドレスを着なくちゃ。きっと人気者だわ」
エイミは笑いながら首を振った。
まさか。そんなことあるわけないじゃない。
クーベルトの魔法はすごい。あの若者たちも黙らせてしまうなんて。
けれどエイミは、舞踏会も若者たちもどうでも良かった。
ただ思うのは、泣くことも笑うこともできないという、ゼンマイじかけの魔法使いのことだけだった。
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