魔法の花嫁
3.光の花
「なんなの……この部屋……」
翌日、魔法使いクーベルトに案内された小さな部屋は、前日に入ったところよりも更にひどかった。
ほこりどころじゃない。家具や天井にはくもの巣がぶら下がっている。小さな机といすが二つあるけど、汚れて何なのかわからないくらいだ。
だいたい、入るときに手をかけたドアノブもさび付いていて、開けるのにずいぶん手間取ったのだ。
「……こんなところでドレスを作れっていうの……?」
「何か不都合がありますか」
「……」
エイミは呆れて声も出ない。
「――いいわ! ドレス作りはあと。先にこの部屋をそうじしないと気がすまない!」
「しかし」
「あなたは魔法にかかってて! さあ、すみからすみまできれいにするわよ!」
エイミは持ってきた裁縫箱を放り出すと、すばやく腕をまくった。
棚の上をはらうと、どっさりたまっていたほこりが舞い下りてくる。
「きゃーっ! なんなのこれっ!」
目を閉じてせき込みながら、エイミは絶叫する。
「どうやったらこんなに汚せるの!? 信じられない!」
部屋の中はもう、前が見えないほどのほこりでいっぱいだ。
「エイミさん」
ドアの外から呼ぶのは、魔法使いの青年。
彼は飛び散るほこりにもまったく構わず、無表情で様子を見ている。
「あなたはあっちに行っててったら! そうじはあたしが――きゃっ! いやだ、くもっ!」
「あなたはそうじをする必要はありません」
「そういうわけにも、きゃ、きゃああっ! 何なの! この本、カビが生えてるじゃない!」
一つ動くたび、一つ動かすたび、エイミはあまりのひどさに絶叫する。
魔法使いは、棒立ちして見ている。
「見てるだけなら、手伝うか向こうへ行くかどっちかにしてよ!」
「あなたはそうじをする必要はありません」
「だから……そうだわ!」
花びんのくもの巣をほどいていたエイミは、ふと振り返った。
「魔法でできないの?」
「何をするのですか」
「そうじに決まってるでしょ!」
「私は魔法でそうじをできません」
「なんで!」
「私はなぜかわかりません」
エイミの頭はおかしくなる寸前だ。
やっとの思いで、その部屋のそうじは完了。
けれどもエイミは、これぐらいで納得しない。
「……まさか、他の部屋もこうなんじゃないでしょうね」
「あなたはそうじをする必」
「しつこいこと言ってないで見せなさい!」
思ったとおり。
魔法使いの広い館に、ほこりが住んでいない部屋は一つもなかった。
「あなた、変よ! どうやったらこんなになるまで放っておけるの!?」
灰まみれのクッションを叩きながら、エイミは叫ぶ。
「私は覚えていません」
「岩みたいに突っ立っている間に、ほこりに家中支配されちゃったのね」
エイミはやると決めたら徹底的にやる性格だった。部屋という部屋をそうじし、ほこりを追い出し、くもの巣を払い、家具を直す。
魔法使いはエイミに背を押されて、仕事部屋に戻った。彼には、早く魔法の準備をしてもらわなければならない。
エイミもドレス作りがあるけど、この館はほうっておけるものではない。
一階が終わると二階にも上り、広い屋敷をすみからすみまでそうじした。
それにしても、変だ。
階段の手すりをふきながら、エイミは考える。
あの魔法使いは、どうやら一人で住んでいるらしい。それにしてはこの館は広すぎる。
だいたい、二階どころか一階の部屋だってほとんど使っていないみたいだ。この階段も一面にほこりが積もっているのに、足跡ひとつ付いていない。
どうして、こんなところに一人で?
契約を交わしたあとの、おそろしく冷たい手を思い出す。
そうじは一日では終わらず、とうとう次の日に持ちこした。
「あなたはドレスを作らなくていいのですか」
朝からやってきてほうきを振り回すエイミに、魔法使いは聞く。
「作らなくちゃだめよ! でも一度見ちゃったものは気になってしょうがないの。家中のほこりを落とすまでやらせてもらうわよ」
「私は構いません」
「それは結構。じゃあ魔法のほうをお願いね」
「はい」
魔法使いは一階の部屋に閉じこもって、魔法の準備。
エイミは二階を駆けずりまわって大そうじ。
その日の午後もそうやって過ぎていった。
エイミが二階のそうじをすべて終えたのは、ほとんど夕方になってから。
これで、家中きれいになったはず。
ただひとつ掃除していないのは、魔法使いのいる部屋だけだ。彼は一日中そこにいて、エイミに「あなたはここに入ってはいけません」と言った。
その部屋は、一階のいちばん奥にある。
暗い廊下を歩いて、エイミはその扉の前に立った。
すると扉が白くなって、文字が現れる。
『あなたはここに入ってはいけません』
ノックしようと手を伸ばすと、文字が金色に光った。
「ねえ、入れてよ!」
エイミは扉の向こうに叫ぶ。
「そうじ、終わったわ。あとはこの部屋だけよ」
すると、新しい言葉が現れる。
『あなたはこの部屋のそうじをする必要はありません』
エイミは手にしたほうきを横にし、柄の先で扉を思いっきり突いた。
扉が元に戻り、そのすきにエイミは取っ手を握る。
押し開いた向こうには、植物の標本、様々な色の薬瓶、湯気を立てた釜、宙に浮いている本、ありとあらゆる変なものが入り乱れている。
その一番奥に、魔法使いがいた。
「私はあなたはここに入ってはいけませんとあなたに言いました」
「はい、聞きました。でもそうじはさせてもらうわ」
エイミは一歩入り、部屋の中を見回す。
「……思ったとおり、ここがいちばんひどいわね」
そうじをする必要は、なかったかもしれない。
魔法使いの部屋はあまりにも物が多くて、どこが片付いていてどこが散らかっているのかもわからなかった。
それでもエイミはほうきを持って、ほんのわずかな隙間があればほこりを払う。
部屋中にあふれている、魔法のかけらを目にしながら。
「すごいわ……」
エイミはため息をついた。
彼女が覗き込んでいるのは、テーブルの上に置かれた鉢植え。ピンク色の花たちは、姿が美しいだけじゃない。歌声もすばらしいのだ。
「これが歌う花ね。初めて見たわ」
花びらがまるで楽器のように閉じては開き、その間から柔らかな歌が聞こえてくる。
その隣には、鎧を着た騎士の人形。エイミが挨拶すると、彼も丁寧にお辞儀を返してくれた。
暖炉の中では、小さな火の精たちが踊っている。
窓辺には、触れたら透明になる幻のカーテン。
魔法使いはと言えば、エイミを無視して分厚い本を開いている。その本は宙に浮いていて、彼が指を鳴らすとひとりでにページをめくるのだ。
「素敵ね。これ全部、あなたの魔法でしょう?」
エイミは答えを期待せずに呟いた。
うっとりしながら、部屋の奥まで歩いていく。
その時、一瞬で目を引かれた。
いちばん奥の窓から、明るい光が差し込んでいる。
その陽だまりの中にたったの一輪、大きな花が浮かんでいた。
葉も茎もない、手のひらくらいの花だけが。
エイミが目を奪われたのは、その色だった。
花びらは青であり、赤であり、緑であり、紫であり、橙であり、そのすべてだった。光の当たり方によって変化するのだ。まるで、雨上がりの虹のように。
降り注ぐ光を吸い込みながら、輝いている七色の花。
エイミはそうじも忘れて、その前に立ち尽くした。
「あなたはそれに触れてはいけません」
突然の声。エイミは現実に引き戻される。
振り向くと、いつの間にか魔法使いが隣にいた。
「わかってる。こんなきれいなもの、うかつにさわれないわ」
「これは光の花です」
魔法使いはいった。
「光の花……?」
「この花は太陽の光を吸収して花びらにその色を反射させます。」
「プリズムなのね。きれいね……」
「この花は光でできていて更に光を吸収して育ちます。光がこの花の栄養です」
「ふうん……」
エイミは、魔法使いと光の花を何度も見比べた。
わかったような、わからないような。
何より、この青年の人形のような表情と、美しい光の花とが結びつかない。
「魔法って、ただ呪文を唱えるだけじゃないんだ」
「魔法は科学です。物理的な現象を数学的に計算した上で初めて魔法を実現することができます」
「へえ……お料理みたいなものね」
できあがりは華やかに見えるけれど、それが花開くまでにはとても細かく遠い道のりがある。
理論と自然の美しさが結びついて、魔法が生まれる。
「本当にきれい……」
エイミは花を見つめながら言った。
光の花だけじゃない。この部屋にある魔法のかけらは、どれも美しいものばかりだ。
隣にいる、黒い髪に黒い瞳を持つ無表情の青年が、このすべてを生み出したなんて。
「あなたって、すごいのね」
尊敬をこめてエイミは言った。
青年魔法使いは少しも表情を変えずに立ち尽くしている。
いや、それだけではない。
エイミは呆然とした。
表情どころか、魔法使いの体はどこ一ヵ所も動いていない。首も、手も、足も。視線はまっすぐ前を向いたまま。まばたきさえしない。
「……どうしたの?」
エイミは彼の目の前で手を振った。
魔法使いは動かない。
端正な唇も閉じられたまま、一言もしゃべらない。
「ねえ! ちょっと、どうしたの!?」
ただならぬ異変に気付いて、エイミは叫ぶ。
魔法使いが答えることはない。これではまるで、本物の人形だ。
「ねえったら! ふざけないでよ、ねえ……」
エイミは叫びながら、青年を強く揺さぶった。
魔法使いの体が左右に動く。
そして自分の意思で立ち直すこともできないまま、彼は仰向けに倒れていった。
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