やきたてをどうぞ [ 10 ]
やきたてをどうぞ

第10話 焼きたてをどうぞ
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 千里はまだ小学生だった。
 そう。たしか、六年生だ。
 〈ありす〉にまだ、たくさんの人が出入りしていたころ。店がなくなってしまうなんて、少しも考えていなかったころ。
 学校が終わってから沙緒梨の家に遊びに行き、その帰り道の夕方だった。あの、大哉と昌樹が会った公園をひとりで歩いていた。ちょうど今と同じような秋のことで、日は短くなったもののそれほど寒くはなかった。公園にはまだ人が残っていたが、少しずつ去っていき無人に近くなっていた。
 千里がその少年に気づいたのは、公園を出る直前だった。
 彼はベンチのひとつに座ってうつむいていた。同い年くらいかな、と思っただけで、他はあまり印象に残らなかった。千里は特に気にすることなく、彼の前を通りすぎた。
 次の日の夕方も沙緒梨の家に行った。何をして遊んだかは覚えていないが、あのころ一週間ほど、毎日のように沙緒梨の家へ通っていたのだ。言いつけられた時間には帰れるように切り上げて、いつもあの公園を抜けて帰っていた。
 だから気がついた。あのベンチの前を通ると、いつも同じ少年が座っていることに。
 同じ時間、同じ場所を通りかかると、いつもその光景が目に入った。彼はいつもベンチに座り、何をするでもなく、ただうつむいているだけだった。
 声をかける気になったのは、雨のせいだ。
 千里が傘を差し出した時、彼は驚いて顔を上げた。
「傘、持ってないの?」
 それは一目でわかった。雨が降り出してから数分が経っているというのに、その少年は傘を開かず、公園から立ち去ることすらせず、ただひとりベンチに残っていたのだ。
 幸いにも小雨だったので、彼の髪も服もそれほど濡れてはいなかった。だが、千里が傘をかざしてやらなければ、間もなく頭からびしょ濡れになっていただろう。
「おうち、ここの近く? 送ってあげるから、入っていきなよ」
 そのころ、千里はまだ携帯電話を持っておらず、少年が家族に連絡するために貸してやることができなかった。少年自身が持っていたかどうかはわからない。整った髪といい、仕立ての良さそうな服といい、どことなく裕福そうだったから、もしかしたら持っていたのかも知れない。しかし仮に持っていたとしても、それを使って迎えを呼ぶつもりはないようだった。
 彼は目を見開いて千里を見上げていたが、やがて無言で傘の柄にふれた。そのまま、それを千里に押し返した。
「君が濡れるから」
 千里は、どうしていいかわからなかった。押し付けられた傘を中途半端なところに掲げたまま、おそるおそる言ってみた。
「立ってくれたら、ふたりで入れるよ」
 少年は答えなかった。彼は押し黙ったまま、もう一度うつむいてしまった。
「ねえ。せめて、屋根のあるところに入ったら?」
「放っておいてくれるかな」
 顔も上げずに言った声に、さすがにかちんと来た。言われたとおりにしてやろうかとも思ったが、少年の髪がすっかり濡れて貼りついているのを見て、それは思いとどまった。
「風邪ひいたらどうするの? 濡れると体に良くないよ。風邪だけじゃなくて、もっと悪い病気になっちゃうこともあるんだから」
 今になって思い出すと、子どもらしからぬお節介だったと思う。けれど、和人からいつも言われていた。『困っている人がいたら、迷わずすぐに助けてあげなさい。はずかしいとか勇気がないとか言って逃げるのは、自分のことしか考えない人がすることだ』
 はたして、この少年がほんとうに困っているのか、千里にはわからなくなりかけていた。ただ、放っておいてはいけないことはわかった。だからしつこく粘った。
「ほんとうに、早く帰ったほうがいいよ。お父さんもお母さんも心配するから」
 そこで少年は、やっと顔を上げた。
「うちには親はいない」
「……え?」
 どうして?
 という言葉を、あわてて呑み込んだ。代わりに、後悔と罪悪感が突き上げてくる。
 どうしよう。言ってはいけないことを言ってしまっただろうか。
 少年はそれきり口を開かなかったので、彼がどう思っているのかはわからなかった。どうして彼に親がいないのかも。
 千里は途方に暮れたが、黙って見下ろしているうちに、ある考えが浮かんできた。
「うちに帰りたくないの?」
 少年の目が少し開かれた。そうして、ふたりは黙ったまましばらく向きあっていた。
 どのくらいそうしていたのかはわからない。千里が覚えているかぎり、次に口を開いた時、雨はもうほとんど止んでいた。
「ここで待っててくれる?」
 え、という形に、少年の口が開いた。返事を待たずに、千里はふたたび傘を差し出した。
「持って」
 勢いに押されたのか、少年は素直に傘の柄を握った。呆然として見つめる彼に、千里はにっこり笑いかけた。
「すぐもどってくるから、ぜったいに待っててね」
 そう言い残して、千里は走って公園から出て行った。

 あの時のあの少年が、千里と同じように年を重ねて、中学生になり、高校生になる。その姿を想像すると、驚くほど楽に目の前の大哉と重なった。
 十六歳の千里は、思わず口元を手で覆った。
 まちがいない。あの少年がここにいる大哉だ。
 ベンチに座っていたあの時とは違い、彼の目線は千里よりも高い。その場所から、大哉は千里にほほえんだ。
「そう。千里はいったん、公園から出ていった。俺はひとりになったけど、千里が傘を置いていったから離れられなかった。それで言われたとおりに待ってたら、千里は何か包みを持ってもどってきたんだ」

 雨はすっかり上がっていた。
 千里は少年に「お待たせ」と言うと、彼の隣に腰を下ろした。木製のベンチは雨を吸って湿っていたが、そんなことは気にならなかった。
 少年は黙ったまま、たたんだ傘を千里に返した。
「雨、止んだね」
 受け取りながら話しかけたけれど、少年は答えずに、千里の腕の中を見つめていた。
「これ? うちから持ってきたの。残りもののパン」
 千里は紙袋を開きながら続けた。
「うちはパン屋さんなの。ここから五分くらいにある、〈ありす〉っていう店なんだけど……知らないよね」
 案の定、少年の反応はなかった。千里はめげずに袋を開け、中からふたつのパンを差し出した。
「あげる。どっちがいい? いっしょに食べよう」
 少年は、差し出されたパンと千里を見比べた。
「なんで?」
「なんでって……」
 千里は上を見て考え込んだ。実のところ千里も、深い意味があってこうしたわけではなかった。どうしてこんなことをしているのか、自分でもよくわからない。
「なんだか退屈そうだったし、家に帰りたくないみたいだったし……」
 ほんとうは何よりもさみしそうに見えたのだが、それはあえて口に出さなかった。
「君は、退屈そうな人を見たらすぐ構ってあげるの?」
 少年の声が迷惑そうに響き、千里は思わずうつむいた。
「ごめんなさい。いらないことをして」
 パンを載せた手を、力なく下ろす。
「でも、雨に濡れてたから、入れてあげなくちゃと思ったの。雨はもう上がったけど……」
 じゃあさよなら、という気にはなれなかった。雨が降っていても動こうとしない様子や、千里が差し出した傘を押し返したことや、『うちには親はいない』という言葉。それらひとつひとつが千里を動かした。気がついたら家でパンをもらい、また少年のところへもどっていた。
 そしてそのパンを差し出して、いっしょに食べよう、などと言っている。見ず知らずの人にこんなことをしたのははじめてだ。
「傘を貸すだけじゃなくて、他にもしてあげられることがあるなら、しなくちゃいけないと思ったの」
「……なんで、それがパンなの?」
「すっごくおいしいから。私はこれ食べると元気が出るから」
 千里は急に胸をはった。これはもう、大きな声で自信を持って言えることだ。
「残りもので悪いんだけど。ほんとうは、焼きたてがいちばんおいしいの。冷めてもおいしいように作ってあるけど、やっぱり焼きたては特別だって――これはお父さんの言葉なんだけど」
「お父さんやお母さんと、仲がいいんだね」
 すぐにうなずこうとしたけれど、一瞬ためらった。『親はいない』と言われたことを思い出したからだ。少年は何の表情も浮かべていないので、その気持ちを読み取ることは難しい。
 けれど偽る必要はないと思い、千里は小さく「うん」と言った。
 ちょうどその時、離れたところから声がした。
「ちーちゃーん」
 公園の奥のほうから、小さな男の子が駆けてくる。昌樹だった。当時は小学生にもなっていなかったが、幼稚園から帰ってからもよく友達と遊んでいた。今はその帰りらしい。
「弟?」
「うん――あっ」
 千里が答えるとほぼ同時に、昌樹は足を滑らせて転んだ。雨で芝生が濡れていたのだろう。服に芝や土をくっつけて、よろよろと起き上がっている。
 千里はすぐ駆け出そうとしたが、手に持っていたパンを思い出してうろたえた。
「行ってやりなよ」
 隣で静かな声が聞こえ、振り向くと少年がこちらを見ていた。彼は千里が持っているパンに手を伸ばして言った。
「これ、両方もらってもいい?」
「――うん」
 うなずくと、ふたつのパンはあっさり少年の手に渡った。彼はそれを袋に入れながら、早く行ってやれ、と目で合図する。
 千里は彼のことを見つつ、ベンチを立って昌樹のそばへ走った。
 姉が来たことに気がつくと、昌樹はすぐに笑顔になった。千里は弟を立たせると、くっついた芝を払い落とし、汚れたところは手で拭ってやった。雨上がりは滑りやすいから走ってはいけないと、小言を言うのも忘れない。そして手をつないでふたりで帰ろうとした時、千里はもう一度、少年がいたベンチを見た。
 少年の姿はそこになかった。千里の傘だけが、ベンチに立てかけて置いてあった。



「どうして話してくれなかったの?」
 不思議な心地に浸りながら、千里は聞いた。
 四年という時間を一気にとんだみたいだ。あの時の少年が、今もこうして千里と向きあっている。千里が成長したように、彼も同じだけ年を経て、背も伸びて、大人びて。
 あの子が大哉だったのだ。千里はそうとは知らずに、大哉と会い、話し、好きあった。いっしょに過ごした時間は一月にも満たない。けれどそのはじまりよりずっと前から、千里は大哉と出会っていたのだ。
「言えないよ」
 大哉は苦笑した。
「あの時の俺、ちょっと情けなかったし。千里は忘れてただろうし」
「忘れてないよ」
 千里にとっては、数年前の出来事のひとつだった。けれども決して、簡単に忘れてしまえることでもなかった。
「あの後で私、いろいろ考えたもの。やっぱりお節介だったとか、嫌な思いをさせちゃったかも知れないとか。自分ではいいと思ってしたことだけど、大哉がどう思ったかわからなくて不安だった。気になって別の日にも公園に行ったけど、大哉にはあれきり会えなかったし」
「逃げるのをやめにしたんだ」
 千里が首をかしげると、大哉は言いにくそうに続けた。
「あのころは、他に行くところがないと思ってたんだ。学校に友達もいなかったし。小学校は普通の公立だったんだけど、雪城っていう苗字で特別な目で見られて、まわりとの間に見えない壁があるような気がしてた。ほんとうは、そんなものなかったのに。だからいっしょに遊ぶ相手もいないし、家に帰っても親もいなかった」
「海外にいたから?」
「そう。ひとりで留守番ならまだ良かったけど、うちには親の代わりに面倒を見てくれる人が何人もいて、それがまた、自分が普通の子どもと違うみたいで嫌だった。うちに帰りたくなくて、いろんなところをふらふら歩いて、そのうちどこにいるのにも飽きて、毎日あの公園でただ座ってるだけになった」
 それが、千里が見たあの少年だ。
 面ざしはたしかに似ているけれど、今の大哉とは別人だ。大哉がそんな時間を過ごしていたなんて、まるで考えられなかった。
「あの時もらったパンは、うちに帰ってぜんぶ食べたよ」
 大哉は話しつづけた。照れているのか顔が少し赤かったけれど、目はしっかりと千里を見つめていた。
「食べながら、いろんなことを思った。千里が――あの子が普通に話しかけてくれたんだから、学校の子とも自分から近づけば仲良くなれるんじゃないかとか、あの子がお父さんのパンをうれしそうに見せたみたいに、自分も親の仕事を誇らしく思ってみようとか。それから少しずつ、いろんなことが変わっていったんだ」
「だから公園にはもう来なかったの」
 大哉はうなずいた。
「中学に上がった時から海外で暮らしはじめたけど、その間も千里のことは忘れなかった。高校をこっちで入ることに決めたのは、将来のこともあったけど、何より千里を探したかったからだよ」
 そして、大哉はほんとうに探し、見つけたのだ。
 あの公園と、家がベーカリーであることと、小さな弟がいること。そして“ちーちゃん”という呼び名。たったこれだけの手がかりで、大哉は〈ありす〉にたどり着き、千里と再会した。
「黙ってて、ごめん」
 大哉は気まずそうに言いつつ、千里の手を取った。それを自分の両手でしっかりと包む。
 少年の手は、あの時よりもずっと大きく、あたたかかった。
「あの時はありがとう。ほんとうは、ずっとそう言いたかった」
 握られた自分の手を、千里は黙って見つめた。
 ありがとうと言いたいのは、千里のほうなのに。
 あの小さな出来事を、大哉はずっと大切に覚えていてくれた。名前もわからなかった千里を探し出し、会いに来てくれた。まっすぐな目で好きだと言ってくれた。
 そして、それから大哉がくれた、たくさんの大きなもの。あたたかいもの。
 形のあるものもないものも、言葉もそのほかのものも、すべてが千里の宝物となった。
 そう言いたかったのに、声がまるで出てこなかった。けれど何とかこの気持ちを伝えたくて、千里は残りの手を大哉の手に重ねた。
「千里」
 大哉の声に顔を上げると、ふたたび視線がかち合った。今度は下を向かずに、精いっぱい受けとめる。
「俺の奥さんになってください」
「……はい」


 三十分という約束の時間を少しだけまわり、千里はあわてて店にもどった。送ってきてくれた大哉はそれを見届けると、店の扉を開けたまま千里に言った。
「じゃあ、また木曜日に」
「うん」
 にこりとして答えたが、うれしいような気まずいような、不思議な気持ちだった。大哉も同じなのか、困ったように笑みつづけている。
「じゃあ」
「うん」
 同じようなやりとりを繰り返したが、大哉は扉を閉めようとせず、千里も奥へ行こうとしなかった。
 長い長い沈黙でふたりは、お互いに考えていることが同じだと気づく。
「ちょっと寄っていく?」
 千里がためらいながら聞くと、大哉はあらためて笑顔になった。
「うん」
 扉が閉まり、鈴の音が店内に響く。
「いらっしゃいませ」
 新しいひなたのにおいがした。



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