やきたてをどうぞ [ 9 ]
やきたてをどうぞ

第9話 夕ごはんですよ
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 机の上に置かれた淡いピンクの花。千里は自分の部屋で椅子に座って、ぼんやりとそれを見つめていた。
 もうどれくらい経つのだろう。大哉の高校から帰ってきたのが夕方で、今はもう外がすっかり暗い。そろそろ店も閉まるころだろう。階下では理絵が夕食の支度をしているはずだ。
 文化祭は、ほんとうに楽しかった。大哉とずっといっしょにいられたし、いろんなことをおしゃべりできた。このヘアゴムも買ってもらえた。
 こうしてそれを見つめていれば、楽しかったことだけを思い出せるはずだった。
 机に頬杖をつく。ずっと頭に残っている言葉を、もう一度くり返してみる。
『いつかは別れなくちゃいけないのに、お互いにわかってて一緒にいるなんてすごいよね』
『普通の会社員の家の子と付き合ってるなんて、それは言えないよね』
 あの売り子の少女に、千里を傷つけるつもりはまったくなかった。だからこそ、最後にこう言ってくれたのだろう。
『今日はたくさん思い出をつくっていってね』
 悪意のない優しい心で、千里たちに同情を寄せてくれた。束の間の幸せを願ってくれた。千里と大哉が、この先ずっといっしょにいるつもりだなんて、彼女には想像もできなかったのだろう。あの学校の生徒――大哉と、よく似た境遇で育った人――にとって、ふたりの組み合わせは、非現実的なものなのだ。
 ドアを叩く音がした。
「千里? 夕ごはんできたよ」
 千里がそれに答え、けれど、やはりぼんやりと座っていると、ふたたび声が響いた。
「入って大丈夫?」
 千里がぼんやりしたまま答えると、理絵がドアを開けて入ってきた。
「どうしたの?」
「……どうもしない」
 我ながらごまかすのが下手だと思った。店の片付けも、夕食の支度も手伝わず、ひとり自分の部屋でぼんやりしている。勉強するでもなければ、自分の好きなことをしているわけでもない。これは、どうもしない千里ではありえないことだった。
「雪城くんと、喧嘩でもしたの?」
 理絵が机の側へ来て笑いかける。千里はそちらを見て首を振った。
「してない」
 喧嘩ならまだ良かった。
 自分が何に傷つき、何に悩んでいるのか、大哉に伝えることすらできなかった。暗くなってしまった千里のことを、大哉はずっと気遣ってくれたのに。
「じゃあ、喧嘩以外で何かあったの?」
 千里は押し黙った。理絵に詳しく話すことはできなかった。すべてを伝えようとすると、店に関することも打ち明けなければならなくなる。
 何も言い出せない千里を見て、理絵はやがて、穏やかにほほえんだ。
「話したくないのなら、無理には聞かない。でも千里、これだけは言わせてくれる? 自分の気持ちを否定したり、無理に変えようとしたりはしないでほしいって」
「……私の気持ち?」
 理絵は身をかがめ、千里の耳元で小さくつぶやいた。
「千里は雪城くんのことが好きなんでしょう?」
 顔どころではない、首筋まで熱が伝わった。
 理絵はそんな娘を見て、少女のように軽やかに笑った。
「やっぱりね。雪城くんも、千里のことが好きなんでしょう」
「……なんで、わかるの?」
「昨日のふたりを見ていたら、親じゃなくたってわかるわよ」
 千里は絶句した。大哉は彼氏ではないと、あんなに力いっぱい叫んだのに。
「仲を探ったり、邪魔したりはしないわよ。千里と雪城くんのことは、ふたりに任せるわ」
「いいの? それで」
「親に言えないようなこと、千里がするわけがないもの。お父さんだって何もうるさいことは言わないわ。さみしがるとは思うけどね」
 理絵はずっとほほえんでいた。はじめての恋愛をしている娘のことを、見守りつつもからかうように、いたずらっぽい笑顔を見せた。
「だから千里は、自分と雪城くんのことだけを考えて。うちの店のことなんて――雪城くんに店を助けてもらおうなんて、考えなくていいのよ」
 千里ははっと顔を上げた。熱くなっていた体が、今度は急激に冷めていく。
「――岸本さんが言ったの?」
 それしか考えられなかった。
 昨日の夕方、岸本はふたりの会話を聞いていた。別れぎわ、すべてを黙っていてくれると約束した。それなのに話してしまったのだ。
 それだけではない。いちばん知られたくなかった部分、大哉が申し出た救済のことまで、彼は聞いていたのだ。知ってしまったのはふたりの関係だけ、というようなそぶりだったのに。
「岸本さんを恨んじゃだめよ。大人として当然のことをしてくれただけなんだから」
 答えられなかった。呆然と座ったままの娘に、理絵は正面から向き直り、言った。
「もう、とっくに気づいていると思うけど、〈ありす〉は近いうちに閉めることにしたの」
 聞き終わらないうちに、千里の目から涙がこぼれ落ちた。
 理絵の笑みがはじめて消えた。
 千里はあわてて頬をぬぐった。自分でも、まさか泣くとは思わなかった。ただ、理絵の小さいけれどしっかりとした声や、落ち着いた笑顔を見ていると、涙が勝手に溢れてきた。
「千里」
 理絵が顔を近づけて、心配そうに声をかけた。
「千里。ごめんね」
 何が『ごめん』なのかさっぱりわからない。謝られる理由なんて何ひとつない。
 むしろ悪いのは千里のほうだ。店が助かる道を見いだしかけたのに、ほとんど迷いもせずにそれを捨てた。父と母のことを気にしつつも、大哉のことで頭がいっぱいだった。
 千里の思いを見抜いたように、理絵は再び笑って続けた。
「千里が気にすることなんて、何もないのよ。さっきも言ったけど、千里は自分のことだけを考えればいいの。大人のことは、大人に任せて」
「――どうして?」
 母の言葉をさえぎるように、千里は言った。
 涙で声を枯らせながら、それでも精いっぱい、あふれてくる言葉をしぼり出す。
「どうして、大人はいつもそうなの? 私だって、お父さんやお母さんのために何かしたいのに。子供は心配しなくていいなんて、どうしてそうやって突きはなすの?」
 言い終わると同時に、千里は理絵から目をそらした。机のほうを向き、うつむいてしゃくりあげる。涙が止まらなくなった。
 ちがう。こんなことを言いたかったんじゃない。
 千里にもできることがあった。大哉の申し出を受け入れれば、店を助けることができた。父と母がそれを許さなかったとしても、何らかの方法があったかもしれない。
 それなのに千里は、その道を選ばなかった。
 大哉を好きになってしまったから、その気持ちだけを大切にしたかった。家が、両親が大変な思いでいる時に、自分だけが幸せになって浮かれていた。
 理絵の言うとおり、千里が気にすることではないのかもしれない。子どもの千里にできることなど、ほんとうに何もなかったかもしれない。
 けれど、何かができたかもしれない――できたはずだ。
 ひどい後悔と自己嫌悪にさいなまれ、泣きつづけることしかできなかった。
 理絵はしばらく何も言わなかった。机のそばに立ち、近づくことも立ち去ることもせずに、黙って千里を見下ろしていた。
 どれほど気持ちが沈んでも、いつまでも泣いていることはできない。やがて千里の涙は止まりはじめ、嗚咽も少しずつ小さくなっていった。
 手の甲で目元をこすり、呼吸を整えていると、ふいにあたたかいものが両肩にふれた。それが理絵の手だと気づくころには、両腕を前にまわされ、後ろからそっと抱きしめられていた。
「千里」
 ちーちゃん、と、幼いころに呼んでくれたのと、同じ声がささやいた。
「千里、ありがとう。心配してくれて」
 千里は呆然としたまま、理絵の腕に手をそえた。こうして抱きしめてもらうのは、ずいぶん久しぶりのような気がした。
「お父さんとお母さんは大丈夫。大人は、強いのよ。思いどおりにいかないことには慣れているし、いちばん大切なものが何かも知ってる」
「何なの?」
 千里はかすれた声で聞いた。嗚咽はすっかりおさまっていた。
「千里と昌樹に決まっているでしょう」
 理絵は身を乗り出し、千里の顔をのぞき込んだ。
「だから心配しないで。お店がなくなっても、みんなでいれば幸せにやっていけるから」
 千里は母の手に自分の手を重ねた。こくん、と小さくうなずく。
 理絵はもう一度強く抱きしめると、千里から離れた。
「さあ、夕ごはんにしよう」
 肩を軽く叩かれ、千里はもう一度うなずいた。
 この家に生まれて良かった、と思った。
 店がなくなってしまっても、この家はいつだって、ひなたのにおいに満ちている。



 大哉と話さなければならない。
 夕食から眠りにつくまで、千里はそればかり考えていた。
 次に大哉と会えるのは、木曜日の放課後。会ったらまず、文化祭でとった態度を詫びる。人の言葉に左右されて、大哉のことをしっかりと見ていなかった。自分の気持ちさえ、揺らぎそうになっていた。まずはそのことを謝りたい。
 そして、伝えるのだ。他でもない千里の気持ちを。
 一夜明けて月曜日になっても、千里の決意は変わらなかった。朝食を終えて家を出て、授業を受け、沙緒梨や他の友達としゃべり、お弁当を食べて、また授業を受け、少し疲れて学校を後にする。
「千里、おかえり」
「ただいま」
 両親と岸本に迎えられて、店番のためにいつもの席へ向かう。レジ台の横に勉強道具を置き、椅子に腰を下ろす。
 課題に取りくみながら、千里は思い出していた。
 あの日も月曜日だった。こうやってレジの前に座って勉強していて、ドアの鈴が鳴ったと思うと、夕方の客――大哉が入ってきて。
 そこまで考えた時、ほんとうに鈴の音がした。あわてて顔を上げ、笑みを浮かべる。
「いらっしゃいま――」
 入ってきた客の顔を見た瞬間、声が出なくなった。
 閉じられた扉の前に立ったのは、さらさらした髪にきちんとした身なりの、姿勢のいい少年。ただ、あの日とひとつだけ違うのは、その表情がひどく緊張しているということだ。
 千里はゆっくりと立ち上がった。
 大哉は少し歩いて、レジの数歩手前で足を止めた。
「こんばんは。急に、ごめん」
「……ううん。どうしたの?」
 できるだけ声を抑えて聞いたが、少し上ずってしまったかもしれない。
 次に会えるのは木曜日だと思っていたところだ。突然の来訪に気持ちがついていかない。
「少し、外で話せるかな」

 厨房にいた和人に許してもらい、千里は大哉と外に出た。三十分だけという約束なのでそう遠くへは行けず、店の近くの路地裏で話すことにした。
 夕方になり風が出てきていたが、まだそれほど冷たくはない。
「昨日、千里が元気ないみたいだったから」
 建物の脇で向かい合うなり、大哉はそう言った。
「それで心配して、来てくれたの?」
「うん。メールか電話すれば良かったんだけど。――何か、嫌なことがあった? 俺が何か言ったとか」
 大哉は見下ろし、真剣に眉を寄せている。
 千里は笑った。大哉は、はじめに告白してくれた時から、少しも変わっていない。
「これ、ありがとう」
 問いかけには答えずに、千里は耳元を指さした。サイドでひとつにまとめた髪を、あのヘアゴムで束ねている。
「これだけじゃなくて、昨日はすごく楽しかった。ありがとう。嫌なことなんて何もなかったよ。大哉のせいじゃないから心配しないで」
「本当に?」
「うん。私のほうこそ謝らなくちゃ。暗くなっちゃってごめんね」
 千里は言葉を切り、少し考えてから続けた。
「いろんなことを考えてたの。大哉の学校のこととか、うちの店のこととか。――これから先のこととか。そうしたら、ちょっと不安になっちゃって」
「――どうして?」
「舞い上がってたんだと思う。あの学校でいろんな人に会って、いろんなことを聞いて」
「誰かに何か言われたの?」
 大哉の目がふたたびけわしくなる。
 千里はゆっくりと首をふった。
 あの少女は、千里を傷つけようとはしていなかった。ただ彼女の常識をもって、ふたりに同情してくれただけだ。だから、悪かったのは――。
「私がしっかりしていなかっただけ。雰囲気に呑まれて、自分の気持ちも大哉の気持ちもわからなくなってたみたい。本当はわかってたのに、わからなくなった気分になっちゃったの」
「うちの学校は、たしかにちょっと特殊だし、いろんな人がいるよ。でも、千里が気にするようなことは何もない」
 千里はまばたきして大哉を見た。核心に近いことは何も言わなかったのに、大哉はだいたいのことを察したらしい。
「うん。私も、もう気にしてない」
 伝えなければならないのは、ここからだ。
 千里は大きく息を吸い込んだ。
「私は大哉のことが好きだから。大哉も私を好きでいてくれるから。その気持ちだけ、大事にしていたい」
 目を合わせているのが恥ずかしくなり、千里はあわてて視線を落とした。ごまかすように、笑いながら付け加える。
「今のは半分、お母さんの言葉なんだけどね。自分のことだけ考えていればいいって」
 くすり、という小さな声が聞こえた。
 見上げると、大哉が目を細めてほほえんでいた。
「千里って、本当に家族と仲がいいね。両親とも、昌樹とも」
「う、うん」
「そういうところも俺は好きなんだよ。知ってた?」
 ふいを突かれた千里は真っ赤になった。返す言葉がまったく出てこない。
 大哉は何がおかしいのか、もう一度くすりと笑った。
「はじめて会ったときから、ずっと好きだった」
 千里は、自分の耳を疑った。
 ――聞きまちがいではない。大哉は今、たしかにそう言った。
「はじめて……会った時って……」
 心臓の音が徐々に大きくなってくる。
 ずっと知りたかった。自分と大哉がいつ、どこで、どのようにして会ったのか。どうして自分はそれを覚えていないのか。それにも関わらず、どうして大哉は好きになってくれたのか。
 千里のどこを、好きになってくれたのか。
「この子は家族のことが大好きなんだろうって、あの時も思ったよ」
 大哉はまだほほえんでいる。千里の驚きと緊張を見すかして、からかうように。どうやら今度は、うっかり口を滑らせたのではないようだ。
「あの時……?」
 さらに問いかけようとした瞬間、千里の頭にある考えがひらめいた。
『今のは半分、お母さんの言葉なんだけどね』
 先ほどの、自分の台詞。あれと同じようなことを、あるいは似たようなことを、自分は前にも言ったのではないか? 大哉に――いや、大哉によく似た少年に。目の前にいる彼よりも、もっと幼い顔立ちの――。
『これはお父さんの言葉なんだけど』
『お父さんやお母さんと、仲がいいんだね』
 胸がひときわ大きな音を立てる。
 何も言えない千里に、大哉は少し照れたように笑った。
「思い出した? “ちーちゃん”」


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