やきたてをどうぞ [ 8 ]
やきたてをどうぞ

第8話 手と手の距離
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 電車を四駅めで降りて、バスに乗って十五分ほど。さらに、バス停から歩くこと五分。
 大哉の学校の近くに来たことはあったけれど、その時は車で、それも前を通りすぎただけだった。こうして自分の足で向かってみると、意外に遠いことに気がついた。そしてあらためて正門の前に立ってみて、その風格に圧倒された。
 これが本当に“高校”だろうか。
 門は千里の背の二倍近くもあり、両側に濃い葉を茂らせた大木がそびえ立っている。守衛所らしき場所もしっかりあり、その前にさらに警備員が二人並ぶ。
 校舎までははるかに遠く、その途中にある丸い花壇には、いかめしい顔の胸像が一つ。作り物めいてきれいな花と低木が、その周りを整然と囲んでいる。
 校舎はどれも風化した煉瓦色で、四階五階までは優にある。敷地が広すぎて奥までは見通せないが、数は一つや二つではないだろう。
 人出も思った以上に多かった。高校に制服がないせいもあって、生徒と部外者の区別がつきにくい。けれど雑然とした感じをさせないのは、この場の落ち着いた外観と、そこにいる人々がつくり出す空気のせいだろうか。誰もが身ぎれいで、立ちふるまいも上品で、ここの空気にしっかり馴染んでいる。
 なんだか、場違いなところに来てしまった気がする。
 先入観も少しはあるのだろう。けれど目にするもの一つ一つがあまりに洗練されていて、千里は思わず自分を見下ろした。 
 黒ジャケットとグレイのスカートで無難にまとめてきたから、ここでもさほど浮くような服装ではない。
 すっかり気おくれしている自分に気がついて、千里はあわてて首を振った。ただの高校の文化祭なのだ。自分がこの場にふさわしいかどうかなんて、考える必要はどこにもない。いつも通りにしていればいいだけだ。
 今日は、大哉と会うためにここに来た。ここがどこだろうが、まわりにどんな人がいようが、そんなことは関係ない。

「千里」
 待ちあわせ場所に近づくと、大哉のほうから気づいて歩いてきてくれた。
「来てくれてありがとう」
「ううん――本当に良かったの? 忙しいんじゃない?」
「うちのクラスは展示だけで、今日は受付くらいしかいらないから。それもほとんど女子がやってくれるしね。それより、どこからまわる?」
 大哉は言うと、厚みのない冊子を千里に見せた。文化祭のパンフレットだ。正門のところでも配っていたが、千里はもらいそびれていた。
「えっと、昨日大哉が言ってた――」
「写真部の展示とギター部のコンサート。あと、先輩のクラスが出してるクレープ屋」
「あと、手作りのお店の」
「それはうちの隣のクラス。ギター部のは午後からだから、先に展示から見ていこうか? どこかの店で昼にして、コンサートの後でクレープでどう?」
「うん。いいと思う」
「じゃあ行こうか」
 大哉はパンフレットを閉じると、向きを変えて前を示した。千里はうなずき、歩き出そうとする。その瞬間、片手を何かにつかまれた。
「――え」
「え?」
 ふたりがほぼ同時に声を出し、お互いを見て固まった。大哉の手が千里の手を取り、前に引き寄せかけている。
「あっ――ごめん!」
 大哉があわてて千里の手をはなした。
 どうやら無意識の行動だったらしい。千里もすぐに反応することができなかった。そのくらい違和感がなかったのだ。
「ごめん! 調子に乗りすぎた! 今のは忘れて」
「――うん」
 千里はぼんやりしたままうなずいた。手に、まだ大哉の感触が残っている。穴の開いたような気持ちに、千里はやや遅れて気がついた。どうやら自分は、手が離れてしまったのを寂しく思っているらしい。
 自分から手を伸ばして、もう一度手をつなぎたかった。別に私はいいよ、と大哉に言いたかった。ここが学校の中でなかったら、きっとそうしていただろう。

 立派な高校に見えても、文化祭は案外普通のようだ。文化部の舞台や展示、食べ物の店やフリーマーケット、ゲームにお化け屋敷――。千里の高校と、ほとんど変わりがない。
 素直にそう言うと、大哉はおかしそうに笑った。
「うちの高校の名前出すと、みんな何かすごいイメージ持つみたいだね。でもすごいのは見かけだけ。中身は千里の高校といっしょだと思うよ」
「でも、見かけだけでもすごいよ。大学のキャンパスみたいに広いもの」
「それは中学がくっついてるからだよ。単純に倍の生徒がいるわけだから」
「そうなんだ。大哉も中学からここにいるの?」
「いや、俺はそのころアメリカにいたから」
「え?」
 思いがけない単語が出てきて、会話が一瞬途切れてしまった。
「――アメリカ?」
「うちの親の仕事のことは、前に話したよね」
 千里の隣を歩きながら、大哉は話し続ける。
 千里はこくんとうなずいた。
 ユキシログループの社長と、社長夫人。仕事の都合から、海外にいることのほうが多いとは聞いていた。
「俺が小学生の頃から、だんだん向こうに行くことが多くなって。中学に上がるのをきっかけに、家族であっちに住むことになったんだ。でも、卒業と同時に俺だけ帰ってきた」
「どうして帰ろうと思ったの?」
 さらりと語る大哉に千里は聞きただす。
 十五歳の少年が、両親から離れてひとりで海を渡る。渡った先がもともと生まれた場所とはいえ、少しも不安がなかったはずはない。
 千里は日本から出たことも、それほど長く両親から離れたこともないので、大哉の選択がいっそう大きく見える。
「もちろん、迷ったよ。でも俺には日本のほうが合っている気がしたし、こっちでやりたいこともいくつかあった。それに、働きはじめてから海外に出るなら、むしろ今は日本でしかできないことをしておこうと思って。そのほうがかえって、向こうで生かせるものが身につくと思ったんだ」
 千里はうなずきながら、はじめて聞くことの数々に目をみはった。
 大哉が“雪城大哉”として、自分のことを話してくれたのはこれがはじめてだった。まだ高校に入ったばかりだというのに、ずっと先のことまで見すえて、今の自分の在り方を決めている。海外に出るんなんて大きな選択肢まで、あっさりと視野に入れて。
「すごいね」
 素直にそう言うと、大哉はきょとんとした。
「……すごい?」
「将来のこと、ちゃんと考えてるんだ。私なんてまだ、卒業した後どうするのかも決めてないのに」
「……変かな」
 千里はめんくらった。心から賞賛したつもりなのに、そんな言葉が返ってくるとは思わなかった。
「変じゃないよ。しっかりしてるなって思っただけ」
「本当に?」
「本当に」
 やけにこだわるなと思いつつ、千里はしっかりと答えた。
 大哉の顔に笑みが広がった。

 その後も文化祭を楽しみながら、ふたりでいろんな話をした。
 大哉の学校のこと。友達のこと。家のこと、両親のこと。海外にいた時のこと。小さかったころのこと。
 大哉は千里と同じような時期も過ごしていたし、千里には想像もつかないような経験もしていた。思っていたとおりの部分もあったし、驚くほど意外な部分もあった。
 しかし、千里はどんなことを聞かされても、動じたり気がくじけたりはしなかった。以前なら大哉の新しい面を知ると、考え方や育ちの違いから、距離を感じてしまうことが多かった。けれど今は、ひとつひとつをすんなりと受け入れられる。どんなことでも大哉の一部として、自分の中に大切にしまっておきたいと思える。
 だから千里も、自分のことをたくさん話した。大哉はうれしそうに聞いてくれた。
 手はつなげなかったけれど、ずっと近くに大哉がいるような気がした。
 今日、ここに来て本当に良かった。何度も、何度も、そう思った。


「かわいい」
 床の上に広げられた色とりどりの小物を見て、千里は思わずつぶやいた。ここは大哉のクラスの隣で、手作りの雑貨やアクセサリーを売っていた。売り子は全員女子生徒で、見に来る客もやはり女の子が多い。
「どうぞ、手に取って見てください」
 売り子のひとりが千里の声を聞いて、にっこりして言った。長い黒髪が肩で揺れる。いかにもここの生徒らしい、身ぎれいでかわいらしい少女だ。床に敷いたじゅうたんに売り物を並べ、その奥にちょこんと正座している。
「全部、手作りなんですか?」
「うん。女子全員で手分けして作ったの」
 少女がうちとけた口調で答える。客が自分と同じ年くらいだと気づいたのだろう。はじめよりも自然な笑顔になっている。
 ビーズ細工のアクセサリー。手編みの雑貨や小物。色といいデザインといい、あらゆる類のものがそろっていてにぎやかだった。少しくらい不格好だったりするのが、かえって愛らしい。少女たちが楽しんで作ったのがよくわかる。
「すごい。楽しそう」
「楽しかったよ。自分で使えないのが残念だけど」
 長い髪の少女は、千里と大哉を交互に見た。
「彼氏さんはこの学校の人でしょう? せっかく来てくれた彼女さんへのプレゼントにどうぞ」
 冗談めかした接客口調に、千里は笑う。
 ところが大哉は、真剣な声で言葉を継いだ。
「どれがいい? 千里」
「え?」
 後ろに立っていた大哉が、その時になって千里の隣に屈んだ。同じ目の高さから、並べられた品物を見下ろす。
「いいよ。私は別に」
 『いらない』という言葉は、すんでのところで呑みこんだ。売り子の少女がきょとんとして見つめている。
「さっき千里、かわいいって言ったのに」
「かわいいけど……欲しかったら自分で買う」
 大哉が顔を上げ、横目で千里を見つめた。
「これくらいの物でもだめ?」
 真剣な目だった。あの白い靴のことを思い出しているのは明らかだ。千里は気まずくなって売り物に目線を戻した。
「値段の問題じゃないの」
「わかってる。でも文化祭だよ。無理して来てくれたお礼くらい、させてもらえないかな?」
 大哉の顔を見られないかわりに、千里は売り子の少女を見た。彼女は困ったように微笑んで、首を傾けてみせた。
 『文化祭だよ』と言った大哉の声が、頭の中に響く。ここで頑なに拒むのは逆にわがままかもしれない。大哉だけではなく、この少女にも気を悪くさせるだろう。こういったイベントの時くらい、場の雰囲気に流されてもいいのかもしれない。
 それに大哉は自分のためではなく、千里のために、千里を喜ばせるために言ってくれている。前の失敗があっただけに、千里の気持ちを推し測りながら。
「甘えてもいいの?」
 おそるおそる隣を見ると、大哉は笑ってうなずいた。
「ありがとうございます!」
 千里より先に、売り子の少女が声を上げた。
「どれにする? 遠慮しないで、どんどん手に取ってね」
「えっと……」
 千里は戸惑いながら、とりあえず大哉に聞いた。
「どれがいいかな?」
「千里の好きなのでいいよ」
「うん……」
 とにかく種類が豊富なので、急に選ぶことになってもそうすぐには絞り込めない。自分のものにするなんて、まるで考えずに見ていたからなおさらだ。どれも素敵だと思うだけに、目移りばかりしてしまう。
「――じゃあ、このへんは?」
 千里の戸惑いを察したのか、大哉が手を動かした。指先にあったのは、それぞれ飾りのついたヘアゴムだった。
「千里は髪がきれいだから。そうやって下ろしたままでもかわいいんだけど、何か付けてみても絶対に似あうと思う」
「そ……そう?」
 赤くなった顔を見られたくなくて、千里は思わず逆を向いた。
 大哉は知っているのだろうか。こういう言葉の数々に、千里がどれほど喜んでいるか。
「じゃあ……」
 千里は向きなおって手を伸ばした。並べられた品々の上をしばらくさまよった後、
「……これは」
 淡いピンク色の、花の飾りが付いたものを手に取った。
 目に入ったその時は、沙緒梨に似あいそうだと思っただけだった。色といい形といい、千里が進んで身に付けるものではない。それなのにどうしてか、右手がそれを選んでいた。
「あ、それ。かわいいよね」
 売り子がすぐに口を開く。
 その言葉を耳にすると、千里もやはりそう思った。かわいい、と。
 マシュマロみたいな、ふんわりやさしいピンク色。
 いつもの千里なら、まず選ばない色。けれど、それをかわいいと思った。他の誰でもない、自分の髪に付けてみたいと。
「……どう?」
 両手にヘアゴムをのせて、千里は隣を見上げた。
 大哉は黙ってそれを手に取った。ゆっくりと、千里の頭へ、耳の下あたりへ持っていく。
「すごく似あう。かわいいよ」

 会計を済ませると、売り子が髪を結ってくれると言うので、千里は案内されるままに従った。大哉は廊下で待っているという。
「どこの高校なの?」
 教室のすみの席に千里が座ると、先ほどの少女が後ろに立った。どこの教室にもある机と椅子だが、机には髪を整える道具一式がそろっている。買ってもらった品をさっそく使ってもらおうという趣向のようだ。
 千里は校名を言った後、すぐに首をかしげた。
「そういえばさっき、私が別の学校だってどうしてわかったの?」
「わかるものなの。なんとなくね」
 意味ありげに言われたが、少女は背後にいるので表情まではうかがえない。髪をすくわれ、ブラシをあてられる。
「さっきの彼氏、G組の雪城くんだったよね」
「大哉を知ってるの?」
「ユキシロだもん。知らない子はいないと思うよ。でも、大変だね」
「え?」
「私の友達にも、公立の男の子と付き合ってる子がいるの。その友達もユキシロほどではないけど、けっこうすごいところのお嬢様でね」
 少女はいったん言葉を止めて、千里に手を差し出した。千里が持っていたヘアゴムを渡すと、再び話が続いた。
「いつかは別れなくちゃいけないのに、お互いにわかってて一緒にいるなんてすごいよね。いくら高校時代の恋愛だってわりきったって、辛いものは辛いでしょう」
 言われている意味がわからなかった。後ろを向きたいけれど、髪を引っぱられているので動くことはできない。
 千里は、まず浮かんだ疑問を言った。
「あの、その友達と彼氏は、いつか別れるの?」
「うん。親の反対を押し切れるような子じゃないから」
「親に反対されてるの?」
「ううん、彼氏のことは親には隠してるみたい。普通の会社員の家の子と付き合ってるなんて、それは言えないよね」
 ようやく意味がわかってきたけど、返す言葉が見つからなかった。それでも何か言おうと口を開いた時、少女の手が髪から離れた。
「はい、できあがり。これで見てみて」
 スタンドミラーと手鏡を使って、少女が合わせ鏡をしてくれた。映された千里の髪は、清楚なハーフアップになっている。真ん中にはピンクの花飾り。まっすぐな黒い髪に、淡い色はよく映えた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
 千里が振りかえると、少女はにっこり笑った。
「今日はたくさん思い出をつくっていってね」
 品のいい、一点の曇りもない笑顔だった。


「千里、疲れた?」
 隣でかけられた言葉に、千里は顔を上げた。大哉が心配そうに見つめている。
「ううん、疲れてない」
「そう? なんだかあんまりしゃべらないから」
 それは自分でも気づいていた。頭が別のことでいっぱいで、大哉の話にも、目の前のさまざまな催しにも、うまく反応してくれない。さっきの手作りの店を出た時から、ずっとだ。
「疲れたんだったら、どこかで早めに休憩しようか? ずっと歩きどおしで足も痛くなるだろ」
 大哉はやさしい。千里のことを本当に想ってくれる。
 それがわかっていたから、千里は自分のことだけを考えていれば良かった。千里が大哉を好きになり、自分の気持ちを整理して伝えれば、すべてがうまくいくと思っていた。その先にあるものなんて考えてもみなかった。
「ううん。まだ大丈夫」
「ほんとに?」
 大哉はなおも覗きこんでくる。
 千里は立ち止まり、その顔を静かに見つめた。
「大哉」
 ただならぬ気配を感じ取ったのか、一瞬ひるんでから大哉が答える。
「なに?」
 ――この先ずっと、私を好きでいてくれる? 私と一緒にいてくれる?
 ――私がただのベーカリーの娘でも。“雪城大哉”の隣にいることがどういうことか、今まで考えてもみなかったとしても。
 聞きたいのに聞けなくて、結局、目をそらしてしまった。
「……なんでもない」
 人に何か言われたくらいで、こんなふうに揺れてしまう自分が嫌だった。あの少女の話はあくまで彼女の友達のことで、それがそのまま千里と大哉にあてはまるわけではない。
 それなのに、消えてくれなかった。髪に付けてもらったピンクの花を思っても、気持ちはあまり浮き立たない。
 さっきまでは近くにあった大哉の手が、急に遠くなってしまった気がした。


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