やきたてをどうぞ [ 7 ]
やきたてをどうぞ

第7話 明日も会えるね
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――彼氏なんかじゃない。ちがうの!
 大哉が傷つくのはわかっていたのに、あの時そう叫んでしまった。とっさのことで混乱していたけれど、それだけが理由じゃない。
 ただ単純に恥ずかしかった。まだ気持ちの整理ができていなくて、認めることができなかった。
 そして何より、理絵に知られてはいけなかった。婚約を条件に、店の救済を申し出られているなんて。
 理絵に――〈ありす〉の者に、知られるわけには、いかなかった。

 三人は沈黙していた。
 千里と大哉はお互いの隣に、岸本はそこから少し離れて立っている。誰も自分から口を開こうとはしなかった。岸本はふたりを見ながら苦笑し、どう切り出すか明らかに困っている。千里は何か言おうとしてみるけれど、頭が動かず言葉がひとつも出てこない。大哉はどんな顔をしているのか、見てみないとわからない。
 千里が思ったのは、ごまかさなくちゃ、ということだった。こんな考えができるようになった自分が悲しい。和人が知ったら、何と思うだろう。
 でも今は、そんなことを考えている場合ではない。
「――き、」
 思い切って口を開いたのに。
「こんばんは」
 一瞬の差で、先を越されてしまった。岸本はふたりの前まで歩いてきて、苦笑ではない笑顔を見せた。千里ではなく、大哉に向かって。
「〈ありす〉で働いている、岸本です。千里ちゃんの――」
「友達です。雪城大哉と申します」
 岸本が言おうとした単語を、大哉は瞬時にすり替えた。きちんとした姿勢で頭を下げる。
 岸本はふたたび苦笑した。
「はじめまして。今日は?」
「お店に来たあと、家のほうにも少しお邪魔してました。パンをいただいたんですが、とても美味しかったです」
「うれしいな。ありがとう」
「岸本さん! 今から帰るんですか?」
 千里は夢中で声を張り上げた。大哉に任せておいても良かったのだが、黙っているのはなんだか居心地が悪かった。
「うん、ちょっと用事があってね。今日は早めに上がらせてもらったよ」
「そうですか。お疲れさまです」
 千里がそう言うと、また三人の間に沈黙が流れる。
 失敗したことを悟り、千里は背筋が冷たくなった。会話を奪い取るまでは良かったが、その後どうつなげるかを考えていなかった。いっそのこと、岸本のほうから立ち去ってくれたら――いや、それではいけない。
 岸本は、さっきのふたりを見ていたのだ。もしかしたら、その前の会話も聞いていたかもしれない。どこまで知られたのか確かめなければならない。そしてその答えによっては、頼みごとをしなければならないかもしれない。
「あの、岸本さん……」
 おずおずと切り出す千里を、どう思ったのか。岸本はまた少し笑い、千里と大哉を見比べて、言った。
「心配しないで。店長には黙っておくよ」
 何を? と聞きかえしかけた声を、あわてて呑みこむ。
 岸本はあいかわらず笑っていた。なんだか妙に、うれしそうだった。
「でも、千里ちゃんもそういう年頃になったんだねえ、うん」
 何度もうなずいては、ひとりでにこにこしている。
 千里は肩の力が抜け――続いて、急に顔が熱くなった。どうやら、いちばんまずい部分は聞かれていなかったようだ。それは良かった。
 けれども、その後のことはしっかり見られていたのだ。
「岸本さん」
 蒸発しそうな頬を押さえて、なんとか続ける。
「本当に、ないしょにしてくれますか?」
「もちろんだよ」
「あ、ありがとうございます」
「でも今日はもう暗いから、ふたりとも早く帰るんだよ」
「はいっ」
 上ずった声で返事をしてしまう。その横で、大哉が岸本に頭を下げた。
「じゃあ、雪城くん、また店にも来てね」
 岸本は手を上げながら、二人に背を向けて歩き出した。暗い道なので、すぐにその姿は見えなくなった。
 ふたりだけに戻ると、急に肌寒くなったように感じる。
「良かった、のかな?」
 大哉の言葉に、半拍遅れて千里は答えた。
「……たぶん」



 入浴を終えた千里は、自室に戻ると片手でドアを閉めた。千里の部屋は、階段を上がって右に進んだつきあたりにある。小さいころは昌樹といっしょだったのだが、高校受験の準備に入る前に、客間のひとつを使って別々にしてもらった。六畳の板間に机とベッドと箪笥、小さな本棚がふたつと、コンポを載せたボードがひとつ。テレビやパソコンは置いていない。
 濡れた髪を拭きながら、箪笥の上の鏡に向かう。
 化粧もしていなければ、髪も染めていないけれど、それなりに自分の外見に興味はある。母親似の小づくりの顔。色白ではないけれど、荒れることはない健康な肌。いちばん気に入っているのは髪質で、友達にもうらやましいといつも褒められる。
 たまには、ちがう格好をしてみようかな。
 いつもより少しだけ明るい、かわいらしい色を。パステルカラーなんかはとても無理だけど、落ちついた紫や、やさしいベージュなら、千里にも着られるかもしれない。
 それとも、色見は抑えたままで、デザインを女の子らしくしてみるか。
 鏡の中の自分と目を合わせて、相談する。大哉は、どんな服をかわいいと思うのだろう。
 前に見立ててくれたのは、ふんわり白いバレエシューズだった。けれどそれ以前から、千里を好きだと言ってくれていたし。
 ――大哉は、千里のどこを好きになってくれたのだろう。
 そこまで考えて、ふと、今日の大哉の言葉を思い出す。
『――やっぱり、好きだ。今の千里も』
 以前にも考えたことは、間違いではなかった。千里と大哉は、あの求婚の日より前に会っているのだ。千里の記憶に残っていないというだけで。
 どうしておしえてくれないのだろう。もちろん昔の話など聞かなくても、大哉の気持ちはじゅぶん伝わっている。その上でさらに、はじまりを知っておきたいと思うのは、欲張りなのだろうか。
 千里にとって大哉との出会いは、唐突で、現実感がなさすぎた。いきなり店に現れて、求婚されて、その人は雲の上にいるような人で。礼儀正しくて、見目も良いお坊ちゃんで。
 千里は――。
 卑屈にはなりたくないけれど、どうしても考えてしまう。たった六畳の狭い部屋。おこづかいをやりくりして、なんとか買いそろえた少ない私服。かわいいと言われたことのない――大哉に言われるまでは――堅く見られがちな外見と性格。多少しつけが良く、しっかりしているだけで、これといった取り柄も持っていない。
 大企業の御曹司と、傾きかけた小さなベーカリーの娘。あまり意識してこなかったけれど、本来なら好きあうどころか、顔見知りになることさえなかったはずなのだ。大哉が千里をどこで知ったのか、どうして好きになってくれたのか、知りたいと思うのはいけないことだろうか。
 今度会った時に、もう一度聞いてみようかな。
 大哉と次に会えるのは木曜日。五日先だ。
 千里はあらためて、頭に浮かんだ数字を読みかえした。
 五日。そんなに先なのかと肩を落とし、そんな自分に気づいて目をみはる。はじめは週に一度だけ会う約束だったのに、先週も今週も大哉が土曜日に来てくれたので、何日も空けずに会うことが当たり前になっている。
 会いたいな。
 数時間前に別れたばかりなのに、そんなことを思う自分が恥ずかしくて、どこか居心地が悪い。ここにいるのは、よく知っている朝見千里ではない。無防備で、不安定で、見かけよりずっと幼い、さみしがりやの女の子。
 もう少し大人になって、我慢する、ということを覚えてほしいのに。
 それなのに彼女の手は、机の上の携帯電話へと伸びていた。
 メールくらいならいいだろう。今日はいろいろなことがあったのだ。お礼を言ったり、謝ったりする理由はたくさんある。だから――。
 ディスプレイを見て、千里は急に現実に引き戻された。
 新着メール、1件。
 おそらく入浴中に受信したものだろう。普段なら部屋に戻るたびにチェックしているが、今日に限ってすっかり忘れていた。
 急いで操作して、まだ読んでいない一通を開く。
 飛び込んできた文字列に、千里はしばらく自分の目を疑った。

 From:雪城大哉
 Sub:こんばんは
 今日はいろいろとありがとう。
 今から電話しても大丈夫かな?

 三回本文を読んだ後、画面の一番上に目を戻す。
 メールの受信時刻は、今から三十分以上も前だった。

 ダイヤル音が一回、二回……。
『千里?』
 三回目が鳴り終わる前に、聞きたかった声が耳に響いた。
「もしもし、千里です。ごめんね、お風呂に入ってて。今メールに気づいたの」
『そうだろうなと思ってたよ。こっちこそ電話させてごめん。メールで返事くれたら俺からかけたのに』
「ううん――」
 電話を耳に当てたまま、何度も首を振る。
 メールを送って大哉からの電話を待つなんて、そんな悠長なことをする気は一切なかった。気がついたら指が勝手に動いて、自分から電話をかけていた。
『今日はありがとう。チャイ美味しかったよ』
「こちらこそ、ありがとう。楽しかった」
 お決まりの台詞を交わしながら、お互いの声色を読みあう。今日あった出来事の中で、いちばん重要なこと――チャイをご馳走したことではなく、その後に起こったこと――については、どちらもあえて口に出さない。
 電話で話をするのははじめてだ。千里はベッドの端に座りこみ、携帯電話をにぎりしめた。両親も昌樹も一階にいるので、壁ごしに聞かれる心配はない。だけどなんとなく、隠れるように小さくなって話したかった。
『元気?』
 先を急ぐように大哉が聞く。今日会ったばかりなのに、などとは、もちろん千里は言い返さない。
「うん。大哉は今、何をしてたの?」
『千里のメール待ちがてら、勉強してた。千里、今ひとり?』
「うん。自分の部屋にいるよ。大哉も?」
『うん。部屋にひとり』
 見たことのない大哉の部屋を、ひそかに思い浮かべる。きっと清潔で、ぬかりなく片付けられているのだろう。机、ベッド、本棚、他には何があるのだろう。本やCDは、どういったものだろう。
 千里は大哉のことを、まだほとんど知らないのだ。何が好きか。ひとりの時、どんなふうに過ごしているのか。
 これから少しずつ知っていけたらいい。そして大哉にも、千里のことを知ってほしい。
 今のような、ささやかな時間を積み重ねて。ゆっくりと、ゆっくりと。
『あのさ、千里』
 大哉が切り出した。
『明日もやっぱり店番があるよね』
「うん。――どうして?」
『本当は昼間、直に言いたかったんだけど――』



 千里がキッチンへ降りていくと、理絵は明日の朝食の準備をしていた。ベーカリーは朝が早いので、和人のためにいつも前日に作っておくのだ。
「お母さん、昌樹は?」
「リビングのソファで寝ちゃった。もう少ししたら起こしに行くわ」
「……そう」
 あいまいに返事をしてから、視線をさまよわせる。
 まな板の上に切った野菜。鍋には出し汁がたっぷりと入っている。ベーカリーの家ではあるが、朝はきっちり和食と決まっている。
「どうかした?」
 野菜を鍋に落としながら、理絵が聞いた。立ち尽くしていた千里に気がついたらしい。
「……何か手伝う」
「そう? じゃあお米を研いでくれる? 三合」
 千里はうなずいた。まな板の隣にあった炊飯器の釜を取り、米櫃のある棚に向かう。
 米を研ぐのは、どちらかといえば好きな家事だ。無心に手を動かしていると、気分が落ちつき考えもまとまってくる。
 ざっ、ざっ。と響く小気味よい音。蛇口をひねって、米の上にまっすぐ水を落とす。もうすぐ水が冷たい季節になるが、今はまだ大丈夫だ。釜の口に手をそえて、白くなった水を慎重に捨ててから、また米の中に指を入れる。ざっ、ざっ。と、規則正しい音が続く。
「どうかした?」
 千里はぴたりと手を止めた。
 同じことを聞いてきた理絵は、味噌を量りながら微かに笑っている。
「――なんで?」
「何か言いたいことがあるんじゃない?」
 楽しそうな母を見て、千里は小さく息をついた。どうして、わかってしまうんだろう。
 千里は手に付いた米を落とし、下を向いたまま切り出した。
「あのね」
「うん」
「大哉が」
 口に出した瞬間、みるみる顔が熱くなった。親の前でその名前を出すことが、こんなに恥ずかしいとは思わなかった。
「うん?」
「……明日、学校の文化祭なんだって」
 千里の数々の発言や、岸本との遭遇でうやむやになってしまったが、大哉はもともと、この件を話したくて店に来たのかもしれない。
『千里を案内できたら、うれしいんだけど』
 そんなふうに言ってもらえる、千里のほうがうれしい。
 けれど、すぐに答えることはできなかった。
「私が店番あるのは大哉も知ってるし、だめもとで誘ってくれたみたいなんだけど……」
『無理にとは言わないから』
「やっぱり難しいよね」
『だめだったら、来週の土曜日に付き合ってくれる? 千里の行きたいところでいいから』
 大哉のその言葉だけで、気持ちだけで、千里は満ち足りていた。このまま電話を切りたくないと思うくらい幸せだった。
 でも千里は、大哉に何も返してあげられない。明日だって、誘いに応じるのはきっと無理。
「いいよ」
 ふいに聞こえた理絵の声に、千里ははっと顔を上げた。
 理絵は唇の端を上げて、静かに笑っていた。
「楽しんでいらっしゃい。せっかく大哉くんが誘ってくれたんだから」
 信じられない気持ちで、母の顔を見つめる。
 断らなければならないと決め込んでいた。ぜったいに無理だと思ったけれど、一度だけ母に確かめようと思ったのだ。いい答えがもらえるなんて期待していなかった。
「で、でも――お店は?」
「昌樹を座らせておけばいいわ。お客さんが来た時だけ、岸本さんに出てきてもらって。一日くらいなんとかなるでしょう」
「本当に――いいの?」
 まだ半分、信じられずに聞くと、理絵はにっこり笑った。
「千里はずっとがんばってきてくれたもの。せっかく高校に受かったのに、木曜日以外の放課後はぜんぶ店番で、日曜日もうちにいてくれて。一度くらいわがままを言ってもいいのよ。お父さんも許してくれるわ」
 理絵の声は優しくて、千里は天にものぼる思いだった。
 けれど、同時に胸が痛んだ。
 放課後と日曜日を、店番のために潰してきたのは本当だ。けれど大哉が現れてから、木曜日はいつも彼と会っていた。時には今日のように土曜日も。
 店を助けるという大哉の申し出を、千里は断った。そして、純粋な恋人同士になる道を選んだのだ。
 ――お父さん、お母さん。ごめんなさい。
 家が大変なこの時に、私は自分の恋にばかり夢中になっている。

 千里は部屋にもどると、すぐに大哉に電話をかけた。
『本当に? 本当にいいの?』
 大哉はめずらしく声を上げて、何度も何度も聞いてきた。電話ごしでも、興奮しているのが伝わってきた。
「うん。お母さんが許してくれたの」
『ありがとう。家の人たちに、俺からも礼を言っておいて』
 学校への行き方をおしえてもらって、待ちあわせの場所も時間も決めた。大哉は見せたいものや行きたい場所について、うれしそうに話して聞かせてくれた。
 千里の胸の痛みはまだ消えない。けれど大哉の声を聞いているうちに、少しだけ気持ちが楽になっていく気がした。
 今はただ、この幸せな時間を抱きしめていたい。店のことも、両親のことも、かすかに残るこの痛みも、少しの間だけ忘れていたかった。
 明日も大哉に会える。
 今夜は、それだけを思って眠ろう。


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