やきたてをどうぞ [ 6 ]
やきたてをどうぞ

第6話 君がくれるもの
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 ミルクパンの中身が煮立ってきたのを見て、千里は手早く火を止めた。片手で軽く揺すってからそれを持ち上げる。湯気に混ざって、シナモンの香りが立ちのぼる。
 茶こしを使ってチャイをカップに注ぐと、千里はそれを両手で持ち上げ、顔のそばまで近づけた。
 いい香りだ。濃さもたぶん、このくらいがちょうどいい。
 チャイのつくり方は、理絵に教えてもらった。涼しくなってくるこの時期から春にかけて、ひとりの時もよくつくるし、昌樹や友達にふるまうこともある。外でもよくオーダーするけれど、自分でつくるのはやっぱり楽しい。
 シンクの前に立ったまま、カップを傾けて、中身をひとくち含んでみる。
 ミルクの甘みがやわらかい。でもシナモンの香りのおかげで、甘ったるくはない。
 これなら、喜んでくれるかな。
 頭のすみに、あの笑顔が映る。千里は自分に呆れて、ため息をついた。
 チャイをつくってあげると、大哉に言ったのが二日前。土曜日が来るや否や、さっそく練習を始めているなんて。“今度”つくってあげると言っただけで、はっきりと約束したわけでもないのに。大哉がうれしそうにうなずいたのだって、ただの社交辞令かもしれないのに。
 千里はもうひとくち、今度は少し多めにチャイを飲んだ。顔が熱くなってきたのは、チャイのせいだということにする。
「ちーちゃん、ちーちゃん」
 壁の向こうから声が聞こえたと思うと、ドアが開いて昌樹が入ってきた。
「昌樹。チャイ飲む?」
「ちーちゃんのつくったチャイ?」
「そうだよ」
「飲む!」
 昌樹が目を輝かせて、千里のいるシンクまで駆けてくる。千里は笑って食器棚に向かい、昌樹のカップを手にもどった。
 だが、ミルクパンの取っ手を再びにぎったところで、昌樹の声に止められた。
「あ、やっぱり後にする」
「どうして?」
「店に大くんが来てるんだ」
 あやうく、中身ごと鍋を落とすところだった。半分残ったチャイは大きく揺れたけれど、どうにかこぼれずに収まってくれた。千里は胸を押さえて、昌樹に向き直った。
「大哉が?」
「うん。だからちーちゃんを呼びに来たんだよ」
 無邪気に話す弟は、大哉の来店を心から喜んでいる。そして、姉も同じように喜ぶものだと信じ込んでいる。
「大哉、何をしにきたの?」
「え? パンを買いに、かなあ……」
 千里は慎重に聞いたけれど、はっきりした答えは返ってこなかった。

 昌樹に引っぱられて店へ向かうと、大哉と理絵が笑い合う声が聞こえてきた。
「すごい偶然ね。千里とも昌樹とも友達だったなんて」
「はい、俺もびっくりしました」
 のれんをくぐって店を覗くと、話していたふたりが同時に振り向いた。理絵はレジの奥に、大哉はその向かいに立っていた。
「千里、こんにちは」
 いつもの大人びた表情で、大哉は笑う。
「こんにちは……何しに来たの?」
「それはないでしょ、千里。せっかく来てくれたのに」
 ねえ、と理絵は大哉に笑いかける。
 大哉は礼儀正しいし、見た目もきちんとしているし、話しぶりも落ちついている。大人が好感を抱かないわけがない。理絵はすっかり取り込まれてしまったようだ。
「……ごめんなさい。でも、本当にどうしたの?」
「近くに用事があったから、ついでに寄っただけだよ。もちろんパンは買わせてもらいます」
 後半は理絵に言って、大哉はパンの並ぶ棚に目を移した。昌樹が「どうぞ」などと言って、トレイとトングを差し出す。大哉は満面の笑みで「ありがとう」と返す。
 千里はこっそり額を押さえた。
 いったい、どんな土曜日なんだろう。
 そういう千里だって、さっきまでキッチンでチャイをつくっていたのだ。大哉には口が裂けても言えない――どうして言えないのかわからないけれど。
「ちーちゃん」
「なに? 昌樹」
「大くんにも、チャイ、つくってあげたら?」
 千里は思わず、弟の口をふさぎそうになった。
「チャイって……このあいだ言ってた?」
 大哉はしっかりと聞いていたようで、二人に口をはさんでくる。
 え? と、昌樹が姉を見上げる。理絵も目を丸くして、千里と大哉を見比べている。
 千里はうつむいたまま、何も言えない。体中の熱が一気に顔に集まっている。
「今ちょうど、チャイをつくっていたの」
 木目の床を見つめたままで、千里はぽつぽつと話しはじめた。人に何か言う時は、相手の目を見なければいけないのに。
「うん」
「予定はないし、勉強も終わったし、暇だったから」
 なぜか言い訳めいた話になってしまう。
「そこに昌樹が来て、大哉が店にいるって教えてくれて……」
「千里、はっきり言えばいいじゃないの。上がっていってくださいって」
 理絵が口をはさみ、またも大哉をにこやかに見つめた。
 話が見えないらしい大哉は首をかしげる。千里もうつむけていた顔を上げる。
「せっかくだから、うちで食べていってくれるとうれしいわ。千里がチャイを入れてくれるだろうし」
「ありがとうございます。でも……」
「予定があるの?」
「いいえ。でも、千里が……」
 全員の視線が、ふたたび千里に集まった。理絵と昌樹は詰めよるように見つめている。大哉の顔は怖くて見られない。
 何を言うべきなのかは、よくわかっている。自分がそれを言いたがっていることも。
 予定のない土曜日。パンを買いに寄ってくれた大哉。運のいいことに、昌樹もそばにいてくれる。
 そして、さっきまで夢中でつくっていたチャイ。
『今度……つくってあげようか』
『――うん』
 たったひとこと言うだけで、それが叶うのに。
「あの」
 途方もない勇気といっしょに、言葉を押し出す。
「うん」
 大哉はさっきと同じように、穏やかに促してくれた。その声にはげまされて、千里はやっと顔を上げる。
「良かったら、上がっていって。昌樹もいるし――チャイもつくるから」
 大哉の目が少しだけ見開く。それからゆっくりと、そのまわりに笑みが広がっていく。
「いいの?」
 自分はこれに弱いのだと、千里はいまさらながら気がついた。
 うれしいことがあった時、大哉はいつになく素直で幼い。その視線を、笑顔を、まっすぐ受けとめるほうがはずかしくなるくらいに。
「うん。いいよ」
「やったあ!」
 黙って見守っていた昌樹が、ようやく安心して声を上げる。
「僕もいっしょにいていい?」
「いいよ」
 むしろ昌樹がいてくれないと困ると、千里はこっそり考える。
「じゃあ僕もパン買うね。いっしょに食べようね、三人で」
「うん、そうしよう。――すみません、お邪魔します」
「いいのよ。私もうれしいわ」
 理絵がにこにこしながら大哉に応えた。本当にうれしそうに、弾んだ声で話し続ける。
「千里が彼氏を家に呼ぶのははじめてなのよ。大人っぽいなんて言われるわりに、この子――」
「ち、ちがう!」
 〈ありす〉の小さな店内に、ありったけの叫び声が響きわたった。理絵はもちろん、大哉も昌樹も驚いて千里を見る。たぶん、厨房にいる和人と岸本にも聞こえただろう。
 千里の頭は警告を送ったけれど、気持ちと口のほうはそれを聞かなかった。
「か――彼氏なんかじゃない。ちがうの!」
「あら、そうなの?」
 きょとんと目を丸めて理絵が聞きかえす。
 今日のこの時ほど、おっとりした母を憎らしく思ったことはなかった。
 理絵はそんな娘に気づくはずもなく、片手を頬に当てて大哉と向き合う。
「ごめんなさいね。すっかり勘違いしていたみたい」
「いいえ」
 苦笑して応える大哉を見て、千里は急に冷めていった。
 ――私は今、何を言った?
 あんな大きな声で。大哉の目の前で。いったい何を叫んだ?
「なんだ、ちがうんだあ」
 そばで昌樹が間の抜けた声を出す。
「大くんは、ちーちゃんの彼氏じゃないんだ」
「うん。ちがうんだよ」
 大哉は昌樹に笑いかけながら、千里の言葉をくりかえす。
 その視線がふいに千里に移る。ほほえんだ大哉の目はいつもと変わらず、何を思っているのかは読み取れなかった。



 パンとチャイを囲んでの三人のお茶会は、おおむね楽しかった。ほとんどは昌樹のおかげだ。三人いっしょにいられるのがうれしかったらしく、ひとりであらゆることを延々としゃべっていた。大哉はそれに楽しそうに応えていたし、千里も落ちつくことができた。
 チャイもかなり上手にできた。昌樹は手放しで喜んだし、大哉は何度もほめてくれた。千里はやっと少しだけ、大哉の来店に感謝することができた。
 あっという間に時間は過ぎ、気がつくと日が沈んでいた。帰宅を申し出た大哉を、千里はバス停まで送っていくことにした。

 〈ありす〉からバス停までは歩いて十分ほどかかる。その道のほとんどは住宅街で、車も人もまばらにしか通らない。バス停に着く少し前、頭の上で街灯が光った。日が落ちてから暗くなるまでが短い。そんな中を、ふたりはほとんど言葉を交わさずに歩いた。
「ありがとう」
 バス停のポールの前に立つと、大哉は振り返って千里を見た。千里はぎこちない動きで、小さくうなずく。
「じゃあ、これで……」
「今度は俺が送っていくよ」
「え?」
 何を言われたのか千里が理解するより先に、大哉は歩いてきた道をもどりはじめた。
 三秒ほど立ちつくした後、千里はようやくその背中を追いかける。
「待って。もどってどうするの」
「だから、千里を家まで送っていくんだって」
「それじゃあ意味ないじゃない。せっかくここまで来たのに」
「だってもう暗くなったし、このへん人通りも少ないし、千里をひとりで帰せないよ」
「でも、大哉の帰りが遅くなるよ」
「いいの。俺が送りたいんだから、そうさせて」
 やりとりをする間も、大哉の足はどんどん進んでいく。さっきよりも歩きが速い。
 千里はあきらめて、一歩後ろをついていくことにした。
 大哉が言ったとおり、歩いてきた道はすっかり暗くなっていた。街灯の光が少しずつ存在感を増してくる。長くなった影はもうほとんど見えない。空の片側の端だけが、なごり惜しむようにじわりと赤みを残している。
 行きの道と同じように、大哉は何も言ってくれなかった。それどころか背を向けて足早に歩くばかりで、千里のほうを見向きもしない。
 遠のいていた後悔が再び襲ってくる。怒ってはいないにしても、傷ついただろう。いくら恥ずかしくても、家族に知られたくなくても、あんなふうにあからさまに叫んでいいことではなかった。
 大哉がほんとうの“彼氏”なら、千里はすんなり謝ることができた。けれど、ふたりの関係はもう少しややこしいのだ。何に対して、なんと言って謝ればいいのかがわからない。
 迷っている間に、帰りの道もすでに半分が過ぎていた。
『千里。自分が悪いと思った時は、迷わずに謝りなさい』
 頭の中に響いたのは、かなり昔の和人の言葉だった。
 千里がまだ幼かったころ。友達と口喧嘩をして、ひどく落ち込んでいた時だ。自分にも非があったことは気づいていたし、大好きな子だったから仲直りもしたかった。それでも謝ろうとしない千里に、和人は言い聞かせてくれた。
『謝るのは相手のためではなくて、自分のためだ。謝れる時に謝っておかないと、いつか千里が後悔することになる』
 千里はひとつ深呼吸して、口を開いた。
「さっきはごめんね」
 千里は何も考えずに、まず言葉を口にした。考えはじめると、口を開く勇気がなくなってしまうからだ。
「さっき?」
 大哉は振り向きもせずに聞き返した。
「――その、店で、あんなことを言って」
 冷たい風がゆっくりと通り過ぎた。もう一枚、厚めのジャケットを着てくれば良かったと思う。
「彼氏なんかじゃない、のあたり?」
 直接的な言葉に、千里は小さく怯んだ。
「うん」
「別に気にしてないよ。事実だから」
 大哉の顔は見えないけれど、その声は怒っていなかった。むしろ明るく、笑っているようにさえ聞こえた。
「でも、あんな力いっぱい叫んじゃって、無神経だった。ごめん」
「いいって。本当に気にしないから」
 大哉は少し語気を強めた。これ以上は何も言うなと、千里を制するように。
 歩く姿はあいかわらず、千里をほうを見ようとしない。
 千里は足を速め、大哉に追いつき、手を伸ばし――背を向ける大哉の腕をつかんだ。無意識のうちの、感情に任せた行動だった。
「だったらちゃんとこっちを向いて」
 大哉が足を止め、ようやく千里のことを見る。千里は大哉の隣に来ていたので、大哉はすぐ横を見下ろす形になった。
「ちゃんと聞いて。私もちゃんと話すから。私、大哉が好きだと思う」
 大哉は呆然としたまま固まった。何を言われたのかわからない様子で、千里を見つめて立ちつくしていた。
「……え?」
「好き、だと思う……ううん、間違いなく、好き」
 さっきまで夜風に当たって冷えていたのに、千里の体はにわかに熱くなった。しゃべっただけでこんなに熱くなるのかと、びっくりするくらいに。
「でも、もう少し待ってほしいの」
 つかんでいた大哉の腕を、両手でぎゅっとにぎる。気が遠くなるくらいの勇気をふりしぼる。
「はじめて会った時、大哉はうちの店を助けてくれるって言ったよね。その代わりに婚約してほしいって。でも前にも言ったけど、私はそんな理由で人と付き合ったりしない。好きになることもない」
 千里は一気に先を続けた。言葉を止めて平静を取りもどすと、恥ずかしさと緊張まで襲ってきそうで怖かった。
「でも今はまだ、大哉のことと店のことを分けて考えられない。どうしても、店のことが頭から離れないの」
 急いでまくしたてたので、自分でも何を言ったのかよくわからない。たぶん大哉にも伝わっていないだろう。
 だから顔を上げて、まっすぐ大哉を見つめて、もう一度、口を開く。
「待ってて。ちゃんと整理して、大哉のことだけ見るようにするから。――そしたらもう一度、好きって言うから。それまで待ってて」
 千里を見る大哉の目が、すっと細くなる。
 何を言われるのか待っていたが、大哉は何も言わなかった。かわりに倒れ込むように前のめりになり、両方の腕を伸ばす。え、と思った瞬間には、千里はもう抱きすくめられていた。
「――ごめん。言われたそばから……」
「うん」
 呆れるあまり、千里は思わず正直に答えてしまった。
 大哉はそれきり、しばらく何も言わなかった。腕に力を入れ、千里を閉じこめて押し黙っていた。抱きしめているのは自分のほうなのに、離さないでほしいとすがっているようだった。
「待ってるよ。いつまででも。急がなくていいから」
 大哉の腕がまた強くなる。言葉ではそう言いながら、大哉自身は明らかに急いている。
「でも今は、少しだけこうさせて」
 千里は全身から力を抜き、まわされた腕にすべてを預けた。
「うん」
 びっくりして冷めた体が、再びゆっくりとあたたまりはじめた。背中を包む腕や、額を押しあてている肩のせいか、ぽかぽかしてとても気持ちが良かった。
 大哉がくれるものはいつも大きくて、あたたかい。
「やっぱり、好きだ。今の千里も」
 押し殺したような苦しげな声。千里はそれを受け入れようとして、できなかった。大哉の言葉のひとつが、耳に引っかかって感情の流れを止めた。
「『今の』――?」
 腕の中で身をよじり、少しだけ大哉から離れる。見上げると、熱に浮かされたような視線とぶつかった。
「私たち、前にも会ったことがあるの?」
 以前にも投げたことのある疑問。あのとき大哉は、突き放すように答えを隠した。
 どうして隠すのか、何を隠しているのか、千里にはわからない。答えがイエスであるなら知りたいと思う。大哉が好きになってくれた理由を、聞きたいと思う。
 大哉はうるんだ目で千里を見たまま黙っていた。感情にかられて思わず出た言葉だったのだろう。明らかにしまった、という顔をしている。大切なことを隠している証明だ。
「おしえて」
 千里の声に、大哉の目が見開く。数秒の後、唇が動いて言葉を紡ぎかける。
 ――が、次の瞬間、大哉はいきなり目をそらした。
 千里から逃げたのではなく、別の何かを見つけたようだった。その結果、大哉は千里から手を離し、一歩後ろに遠ざかる。
 嫌な予感がして、千里も大哉と同じ場所を見た。忘れていたのだ。ここが、人気が少ないとはいえ、れっきとした屋外であることを。
 自宅である〈ありす〉のすぐ近くであるということを。
 ふたりを引き離した犯人は、一度は立ち去ろうとしたようだった。しかし視線を感じたのか、足どり重く引き返してきた。
「ごめん。千里ちゃん……」
 苦笑いを浮かべたのは、〈ありす〉の職人、岸本だった。


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