やきたてをどうぞ [ 5 ]
やきたてをどうぞ

第5話 お砂糖を一さじ
[ BACK / TOP / NEXT ]


 高校に通う千里にとって、木曜日は疲れがピークに達する日で、集中力がいちばん切れやすい日でもある。そんな日に限って、予習が大変なリーディングや、苦手な化学があるのだからたまらない。
 〈ありす〉が休みなので、放課後が自由になることだけが、せめてもの救いだ。
「千里、化学の課題やってきた?」
 沙緒梨が聞いてきたのは、そんな木曜日の昼休みだった。
 千里は机から顔を上げ、にっこりと笑う。
「うん。もう完璧だよ」
「え――ほんと? あんなに苦労してたのに?」
「この三日間、店番の間はそればっかりやってたもん。ついでにわからなかったところの復習もできちゃった。今度のテストはそこそこやれそう。お昼の後で答え合わせしようよ。さおちゃんは全部できた?」
「千里、なんだか機嫌いいね」
 沙緒梨が真顔で言ったので、千里はあわてて笑みを打ち消した。
 ひとりで長々としゃべってしまった。しかも、大嫌いな化学の話なんか。
「金曜ならわかるけど、まだ木曜だよ? 週末まであと一日と二コマあるんだよー」
「……でも、ほら、木曜日は店が休みだから」
「何か楽しみなことでもあるの?」
 小動物のような丸い目をきょとんとさせて、沙緒梨が聞く。千里は内心ぎくりとしたが、顔には出さずに沙緒梨を見返した。
 沙緒梨とは小学校の時からいっしょで、家族ぐるみで仲が良い。だからお互いのことはよく知っている。小柄でおっとりした沙緒梨は千里とは対照的に、妹のようにかわいがられるタイプの女の子だ。けれど、あどけない目で人のことをよく見ていて、時には雰囲気に合わない大人びたことを言う。
 そんな沙緒梨には中学の時から、つきあっている人がいる。
「さおちゃん、聞いてほしい話があるんだけど……」

 日当たりのいい中庭のベンチで、沙緒梨と並んでお弁当を広げながら、千里は時間をかけて話をした。大哉のことを人に言うのは、はじめてだった。もちろん、店に関わるところは、適当にぼかしておく。
 沙緒梨は小さくうなずき、相槌を打ち、時々は小さな質問をはさんだりして、千里の話を最後まで聞いてくれた。それからサンドイッチを少し食べ、紙パックのジュースを一口飲んでから、口を開いた。
「千里は、その男の子といて楽しいんだね」
 自分のことのようにうれしそうに笑うので、千里ははずかしくなって目をそらした。
「うん、たぶん……」
「良かったね。木曜日が毎週楽しみだね。私は千里と遊べなくなるから、ちょっとさみしいけど」
 千里はうなずいて、下を向いたままため息をついた。
「本当に、自分でもびっくりするくらい、木曜日なのがうれしくて。でも……うれしいってことが、ちょっと変なの」
「変?」
「うれしがってる自分が変に思うの。どうしてうれしいのか、わからなくて」
「その子のことが好きだからじゃないの?」
 沙緒梨はあっさりと言い、千里は少し沈黙する。
「……そう、なのかな」
「千里は、他に心あたりがあるの?」
「うん……その子といっしょにいて、楽しいのは確かなんだけど。それは私がその子を……好きだからじゃなくて、私を好きだって言うその子を好きだからじゃないかなって」
「……ええっと……?」
「ごめん、わかりにくいね。つまり――私は、その子に好かれているのが、気持ちいいだけじゃないのかなって」
 大哉といっしょにいると楽しい――それに何より、居心地がいい。それはたぶん、千里の居心地を良くしようと、大哉がいつも気をつかってくれるから。気をつかわれていることが伝わってくるから。
 千里ひとりの気持ちに、あんなに左右される人がいるなんて。千里が笑えば大げさなほど喜び、千里が怒れば必死になって謝る。
 絵に描いたような“お姫様”扱い。
 自分は、その心地良さに酔っているだけなのだろうか。好きだと言ってくれて、大事にしてくれる人であれば、誰でもいいのではないだろうか?
 木曜日の放課後が楽しみになるにつれ、自分の気持ちに自信がなくなった。こんな不安なままで、大哉に会ってはいけないような気がする。
 けれど、会いたい。それだけは確かだ。
「うーん……」
 沙緒梨は眉を寄せ、伸ばした膝に手を置いた。真剣に考える時の沙緒梨のくせだ。
「よくわからないけど、好かれるのがうれしいっていうことも、好きになる理由としてじゅうぶんじゃないかな?」
「そうなの?」
「『彼氏のどこが好き?』って聞かれて、『私を大事にしてくれること』って答える人って、けっこういると思うよー」
「でも、私たちはまだつきあってなくて、一方的に好かれているだけなの。私からは何もお返しできないのに、相手がくれるものは喜んで受け取るなんて、すごく失礼じゃない?」
「それは相手によると思うけど……。でも千里にだって、相手に向かう気持ちはあるんだよね? それが“好き”なのかどうかがわからないだけで」
「わからないから悩んでるんだよ……」
 めぐりめぐって、話は元の位置にもどってしまった。千里は肩をすくめて、もう一度ため息をついた。
 反対に沙緒梨は、伸ばした膝を元にもどす。ジュースのストローをくわえ、音をたてて残りを吸う。
「相手が待ってくれてるんなら、ゆっくり考えればいいと思うよ。今日の放課後もその子と会うんでしょう? その時、自分の気持ちをよく確かめてみなよ」
「んー……そうする。……ちなみに、さおちゃんは彼氏といる時、どんな感じがするの?」
「ええとねえ……」
 ジュースのパックをたたみながら、沙緒梨はゆっくりと続けた。
「あったかい」
「……あったかい?」
「うん」
 沙緒梨の手が動き、しばらくさまよった後、首と胸の間に当てられる。
「このへんが、ぽかぽかするの。ちょうど、あったかい飲み物を飲んだ時みたいに」
 千里は沙緒梨の真似をして、同じ場所に自分の手を置いた。大哉といっしょにいる時、ここはあったかくなっているだろうか。
「あとね、甘い、かな」
「甘い……」
「あったかいのは彼氏だけじゃなくて、家族でも、友達でも、千里といる時だってそうだよ。でも彼氏の時は、あったかい上に、甘いの」
 ぽかぽかするという場所を、沙緒梨は手で軽く叩いた。
「あったかい紅茶に、お砂糖を一さじ入れて飲んだみたいな感じ」

 今日もいつもの駅で待ちあわせだから、千里は制服のままでそこに向かう。バスターミナルから地上に出る前に、通路にある鏡に自分の姿を映してみた。深緑のブレザーに、同系色のチェックのスカート。黒いハイソックスに茶色のローファー。
 着崩れたり汚れたりしていないか確かめて、鏡の自分に向かって姿勢を正す。最後に、両手で軽く髪をととのえた。
 どこもおかしいところはない。自然で清潔で、いつもどおりだ。そのかわり、取り立ててきれいでもないけれど。
 ほんとうは、もっと気をつかうべきなのかもしれない。制服のままなのは仕方がないけれど、髪型を少し変えたり、簡単なメイクくらいはしたほうがいいのかもしれない。自分を好きだという人に会いに行くのなら。
 けれど、千里はそれをしない。
 もともと派手な格好は嫌いだから。高校の間はメイクをしないと決めているから。急に外見にかまうようになって、両親に変に思われたら困るから。
 理由はいくつでも挙げられるけれど、結局はどれも言い訳だ。本当はただ、勇気がないから。
 何の勇気なのかはわからない――ううん、ほんとうはわかっている。千里に足りないのは認める勇気。
 大哉に会うために、きれいにして行きたいと思う自分を、認める勇気。

「千里、決まった?」
 メニューから顔を上げた大哉に、千里はこくりとうなずいた。
「私はチャイにする。大哉は?」
「エスプレッソ。じゃあ呼ぶよ」
 大哉は頭だけ振り返り、カウンターに向けて小さく手を示した。こういう仕草は高校生離れしていて、育ちの良さをあらためて感じさせる。
 すぐに店員がやってきて、オーダーを聞いて引き返していった。
 店内は木製の家具で統一されていて、どこか古めかしい雰囲気がただよっている。オレンジがかった、薄暗い照明のせいでもあるだろう。ひかえめに飾られた写真や観葉植物。テーブルクロスはやわらかなベージュで、小さなランプがさりげなく置かれている。ふたりの他には、会社員ふうの男性のグループと、常連客らしい老夫婦がいるだけだった。
「こんなお店があるの、知らなかった」
 千里は小さな声で言った。静かなので、お互いの言葉がよく聞こえる。大哉はうれしそうに笑って答えた。
「大通りに面してないからね。でも、駅からじゅうぶん歩いて来られるし、穴場だろ?」
「うん。素敵」
「良かった。俺もまだこれで二回目なんだけど」
 一回目はどんな用で来たのか、大哉は言わなかった。
 もしかしたら、今日の下見に来たのだろうか。千里が気に入るかどうか確かめるために――そこまで考えるのは、うぬぼれすぎているだろうか。
「今日も制服のままだね」
 大哉が話題を変える。
 千里はぎくりとしてしまった。
「私服で来たほうが良かった?」
 全国チェーンのカフェやファーストフードとはちがうのだ。ここではたぶん、千里の服装のほうが浮いて見える。大哉はいつものような格好で、店の雰囲気にしっかりとなじんでいる。
「そんなことないけど。着替える暇もないくらい急がせたら悪いと思って。もう少し後の時間にするか、場所を変えようか」
「ううん。ここは通学路だからちょうどいい。そういえば大哉はいつも私服だけど、着替えに帰る時間があるの?」
「いや、俺も帰り道だよ。うちの高校、制服ないから」
 千里はきっちり三秒は沈黙した。大哉の高校を知らなかったことに、今さら気づいたのだ。
 しかも、このあたりで私服の高校といえば、ひとつしか浮かばない。
「どこの学校か聞いていい?」
 大哉はすぐに校名を言った。思ったとおり、箱入りのご子息ご令嬢が通う、いわゆる名門私立だ。千里も通りすがりに見たことならあるけれど、大げさな門構えの向こうに、いくつもの古めかしい校舎が並び、まるで大学のキャンパスのようだった。
 やっぱり大哉は、“雪城”大哉なのだ。
 飲み物が運ばれてきた。
「お砂糖、いる?」
 シュガーポットに手を伸ばしかけて、千里は大哉に聞いた。
「いや。ミルクだけでいい」
「ふうん」
 そういえば、はじめていっしょにコーヒーを飲んだ時も、大哉はミルクしか入れていなかった。甘いのは得意ではないのだろうか。
 千里はポットから一さじすくい、クリーム色のチャイの中に入れる。甘い湯気が立ち昇ってくる。
「千里は、甘いもの好き?」
 今度は大哉が聞いた。ミルクを落としたコーヒーをかき混ぜながら、目は千里の手元を見つめている。
「うん。どっちかって言うと甘党かな」
「チャイって飲んだことないんだけど、美味しいの?」
「うん、私は好き。うちでもお母さんがよくつくってくれるの」
「へえ。千里もつくれるの?」
「うん。簡単だよ」
 短く答えて、なんとなく黙ってしまう。そのまま相手を見ていたが、大哉が言葉を継ぐ気配はなかった。
 チャイのつくりかたを話そうかと思ったが、再び開いた口は、どういうわけかこんなことを言った。
「今度……つくってあげようか」
「うん」
 光が照るように、大哉の顔に笑みが広がっていく。千里は無意識に、首と胸の間に手を置いた。
「――でも私、甘いものでもココアはだめなの」
 なぜかあせってしまい、いきなり話の向きを変える。
「ちょっと粉っぽくてざらざらしてるでしょ、あれが苦手なの。チョコレートは好きなんだけど」
「俺もチョコレートは好き。ビター限定で」
「甘いのは好きじゃない?」
「どちらかというと」
「じゃあチャイもあんまり合わないかも……あ、おすすめしないわけじゃなくて。お砂糖を入れなかったら大丈夫、たぶん。あとスパイスを効かせれば、ミルクの甘さも気にならないし。シナモンとかジンジャーとか――」
 ここでふと、大哉を見る。
 大哉は口を閉じたまま、穏やかにほほえんでいた。千里のことを見守るように。
 顔まで一気に熱が上がってくる。ひとりで何を長々としゃべっているのだろう。とりとめがない上に、早口で文章が成り立っていない。自分のことをおしゃべりだと思ったことはないのに。
 自分でもはっきりわかるくらい、今日の千里はおかしかった。沙緒梨に相談したことが裏目に出たようだ。変に意識してしまって、やりにくくてしかたない。
「えっと……ごめん」
 取り繕うために口を開いたけれど、またもや失敗だった。極端に小声の上、ひどく間が悪かった。
「なんで謝るの?」
 一方の大哉はというと、頬杖をついたりして、楽しむように千里を見ている。
「あの、しゃべりすぎて」
「だからって急に黙らなくても。今日の千里、なんかかわいい」
 そんなことを言われてしまい、千里の頬にまた熱が広がる。
 いけない。これじゃまさしく、お姫様扱いに浸っているみたい。
 けれども、不思議と嫌な気分ではなかった。
 たしかに居心地は悪いけれど、それでもここにとどまっていたい――同時に今すぐ逃げ出したい。見られているのがはずかしい――でも、目をそらされたらきっと悲しい。この沈黙が終わってほしい――いや、いつまでも続いてほしい。
 ずっといっしょにいたい。
 早くひとりになりたい。
 ほっとするのに落ちつかない、ひどく矛盾した気持ち。
 喉から胸へ甘いものがすべり落ちていく。チャイは一度も手をつけられないまま、湯気を立てるのをすっかりやめていた。
――さおちゃんは彼氏といる時、どんな感じがするの?
『あったかい紅茶に、お砂糖を一さじ入れて飲んだみたいな感じ』


[ BACK / TOP / NEXT ]

Copyright (C) Kizugawa Yui.All right reserved.