やきたてをどうぞ [ 4 ]
やきたてをどうぞ

第4話 ランチにしましょう
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「ありがとうございました」
 ドアに付けられた鈴が鳴り、客は店を出て行く。
 千里は息をつくと、客のいなくなった店内を見渡した。土曜日の昼時だというのに、棚に並んだパンはほとんど捌けていない。開店した時のものがそのまま残されている。
 レジの椅子に座り、テーブルで頬杖をつく。土曜日は理絵のパートも休みだが、家事を済ませるまでは千里が店に出ている。勉強は後でもできるので、今はぼんやりしながら客を待つだけだった。
「千里ちゃん?」
 ほんとうにぼんやりしていたのか、誰かが来たことに気づいていなかった。
 声におどろいて顔を上げると、岸本が鉄板を持って前に立っている。
「メロンパン焼きたて。並べ換えてくれる?」
「は、はいっ」
 急いでメロンパンのかごを取りに行き、岸本のところにもどる。
 かごには開店時に並べたパンが、ほとんど減らずに残っている。もったいないとは思うけれど、焼きたてができれば入れ換えるのはこの商売の基本だ。残ったものは閉店の一時間前に値引きして、それでも売れなければ店の者が引き取って片付ける。
「めずらしいね。千里ちゃんがぼーっとしてるなんて」
「すみません。……ちょっとおなかが空いて」
 苦しまぎれの弁解に、岸本は明るく笑った。
「後で厨房へおいで。ベーグルがもうすぐ焼きあがるから、味見しに来てよ」
「ありがとう。ぜひ行きます」
 並べ換えが終わると、岸本は厨房へもどっていった。
 千里は焼きたてを載せたかごを持って、置いてあった陳列棚に向かった。焼きたてのメロンパンは、小麦粉と甘い砂糖があわさって、やさしいにおいを漂わせる。ほんとうにおなかが空いてきて、できれば後で厨房に寄ろうと思う。
 岸本は和人より十歳年下で、〈ありす〉の開店当初から厨房にいた。千里の小さいころから、昌樹にいたっては生まれた時から知っているので、二人のこともよくかまってくれた。新作のパンを味見させてくれたり、無邪気な質問にていねいに答えてくれたり。
 〈ありす〉がなくなったら、岸本はどうするのだろう。他の店に行くのか、自分の店を持つのか。学校を卒業して、はじめて勤めたのが〈ありす〉だと言っていた。職場を失うということがどれほど大変か、千里にはまだ漠然としかわからない。
 『年内になると思う』と、和人から具体的に聞いた岸本が、何を思っているのかも。
 客足は、まったくないわけではない。先ほどのように外出の帰りに寄ってくれる、近所に住んでいる親子がいる。平日なら昼休みに必ず来てくれる、近くの事務所のOLたちもいる。それでも、店を続けていくのにじゅうぶんな数ではない。千里にもわかるくらい、客の減り方ははっきりと目に見えていた。
 千里はレジにもどり、再び椅子に腰を下ろした。
 見慣れた内装。見慣れた角度。少し前にも、ここに座ってため息をついていた。和人の話を聞いてしまった日だ。あの日は平日で、勉強道具を持ち込んで――。
 細かく振りかえっているうちに、思い出してしまった。
 雪城大哉を。
 白い靴の一件があった木曜日から、二日が経っている。あの後も大哉は千里に謝り続け、千里は言い過ぎたと思いつつ謝る機会を逃し、あの日はずっと気まずいままだった。
 次の木曜日も会うことになっているが、どんなふうにしたら空気を解きほぐせるのかわかならい。喧嘩をしたわけでもないから仲直りと言うのもおかしいし、かと言って、何事もなかったように接するのもしらじらしい。
 考えあぐねていると、鈴の音が店に響いた。
「ちーちゃん」
 視線を移すと同時にドアが開き、小さな子どもが入ってくる。
「お店から入っちゃ駄目って、いつも言ってるでしょ、昌樹」
 レジの前まで走ってきた弟に、千里は顔をしかめて見せた。以前は千里が和人から、口をすっぱくして言われていたことだ。
「それに、ただいまは?」
「ただいま。でも、今日は店から入ったっていいんだよ。お客さんがいっしょだから」
「え?」
 おかえりを言うのも忘れて、千里は閉じたドアのほうに目をやった。再び鈴が鳴り、もうひとりが店に入ってくる。およそ二週間前に見たのと、同じような光景。
「ちーちゃん、いらっしゃいませは?」
 はずんだ声で昌樹が言った。いつも千里に注意されているので、自分が千里に言えるのがうれしいのだろう。
 しかし千里は弟の声を聞き流して、目の前にいる客に見入った。
 雪城大哉は今日も背筋を伸ばして、千里と目があうとほほえんだ。
「昌樹――くんの友達です」
 ――友達?
 千里は反射的に昌樹を見た。昌樹はテーブルに頬杖をついて、笑顔で千里を見上げている。
「雪城大哉と言います。はじめまして、『ちーちゃん』」
 心なしか強調して呼ばれた気がして、千里は顔が熱くなった。小さいころに理絵が呼び始めた愛称は、今では昌樹しか使っていない。
「なんで……昌樹と」
 乾いた喉から、やっとそれだけをしぼり出す。
「公園で会ったんだよ」
 答えたのは大哉ではなく、昌樹だった。
 昌樹の通学路には大きな公園があり、昌樹はよくそこで友達と遊んでくる。子どもだけでなく、親子連れ、中高生、老夫婦、体を動かしに来る人、さまざまな層が好む場所だとは知っていた。けれど、昌樹がそこで大哉と会っていたなんて、どうして考えられただろう。
「ちーちゃんも大くんと友達なんだよね? だから連れてきたんだよ」
 まるで何かのお手柄のように、誇らしげに昌樹が語る。しかも、『大くん』だ。少なくとも昌樹のほうは、心から友達だと思っているらしい。
 大哉が急に肩をすくめ、千里に苦笑して見せた。
「そんな顔しないで。ほんとにパンは買わせてもらうから」
 千里はその時はじめて、大哉をにらんでいたことに気がついた。そのうえ座ったままという、この間と同じ失敗をしている。昌樹の手前、これは良くない。千里はあわてて立ち上がった。
 大哉はトレイとトングを持ち、棚のパンを眺めている。
 ベーカリーは女性客が多いので、棚の位置は高くしない。〈ありす〉は店舗が小さいこともあり、全体が二段づくりだ。
 レジと向かい合わせの棚には、上段にバターロールやクロワッサン、メロンパンやあんぱんなどの定番の品。下段にはたまごやベーコンを使った調理パン。もうひとつの棚は窓ガラスごしに外から見えるので、目にも美味しいものを置いている。子どもが喜ぶ動物の形のパンや、和人たちが考案したオリジナルのものもある。その向かい、厨房との壁の前にある棚には、食パンとバゲット。隅には、ラスクやマフィンといったお菓子もある。
「店員さんのおすすめは?」
 棚の前で振りかえりながら、大哉が聞いてきた。
「……メロンパンが焼きたてです」
「ちーちゃん、怖い顔してるとお父さんに叱られるよ」
 昌樹の言葉に大哉が吹き出す。
 千里は少し赤くなった後、接客用の笑顔をつくった。ほとんどやけになっていた。

 数十分後、千里と昌樹、そして大哉は、件の大きな公園に来ていた。
 土曜日のお昼時で、空は絵に描いたような秋晴れの青。ふだんから人気の多いこの公園には、いつもにも増して多くの人が集まっていた。
 小さな林の中に、入り組むように散歩道が敷かれ、木製のベンチが点々と並ぶ。その中のひとつに、千里と大哉はふたりで腰かけていた。昌樹は学校の友達を見つけたようで、遊んでくると言い残して行ってしまった。
 千里は内心、裏切り者と訴えたい気分だった。昌樹の提案で、昼食を食べに出てきたのだ。三人いっしょならと思っていたのに、話がちがう。
 ベンチに座るふたりの間には、もうひとり座れるくらいの空間と、簡単には破れない沈黙がある。千里はうつむいて、膝に置いたパンの袋を見ていた。視界の端にかろうじて映る大哉も、同じ姿勢をとっている。その表情をうかがいたかったが、千里が顔を上げれば、大哉も千里を見るだろう。目をあわせるのが怖くて、下を向いたまま固まっていた。
 気まずい理由はもちろん、二日前のことがひとつ。
 もうひとつ――より重たいのは、聞きたくて聞けないことがあるということ。
「……何か言いたそうだね」
 大哉が急に沈黙を破ったので、千里は顔を上げてしまった。空間を置いて右隣から、大哉が苦笑を浮かべて見つめている。
「千里の聞きたいことは、だいたいわかるよ。どうぞ遠慮なく」
「……じゃあ」
 千里は間をとって、軽く息を吸いこんだ。
「じゃあ、教えて。昌樹は店のこと、どれだけ知ってるの?」
 弟はここからも見える広い芝生で、友達とボールを追いかけている。千里も大人ではないけれど、それよりももっと子どもの昌樹。店の事情を知って心配しないように、千里は何かと気にかけていた。売れ残ったたくさんのパンは見せないようにして、職人の数が減ったり、理絵がパートに出たりする理由は、適当にごまかしてきた。
 それでも昌樹は察していたのだ。そして話したのだ――この公園で出会った“友達”に。
「千里が心配するほど詳しくはないよ。昌樹が教えてくれたのは、『お客さんがあんまり来ない』っていうのと」
 大哉はいったん言葉を切った。千里を見つめて、かすかに目を細める。
「『ちーちゃんが元気ない』っていうこと」
 千里は目を見開いて大哉を見て、それから遊んでいる昌樹に視線を移した。
 見た目も性質もやや幼い昌樹は、同い年の友達といても、ひとりだけ下級生のように見える。元気の良さは人並み以上のようで、誰よりも速くボールに追いつく――その瞬間、足をすべらせて転ぶ。芝生を髪にくっつけて、笑顔で起き上がる。
「いいね。きょうだいって」
 隣で大哉がつぶやいても、千里は昌樹から目を離せなかった。
 七つも年がちがうこともあり、千里にとっては、かわいくて手のかかる弟だ。その弟が、千里の心配ごとを見抜いていた。千里が弟を気にかけていたように、昌樹も姉を気にかけていた。
「大丈夫?」
 大哉が上体を傾け、視界の端に割り込んできたので、千里はようやく我に返った。
「……うん」
 大哉が姿勢を元にもどす。
 ふたりはもう一度、並んで前を向く形になった。間には変わらず、ひとりぶんの隙間がある。けれど、そこに落ちていた重たい沈黙は、いつの間にかなくなっていた。ふたりの間を埋めるのは、秋の落ちついた陽射しだけだ。
「パン、食べない?」
 脇に置いた〈ありす〉の紙袋を、大哉は指で示した。同じものが千里の膝の上にも載っている。昌樹が三人で出ようと誘ったので、千里も自分のお金で買ってきたのだ。家事を終えた理絵がレジを打ち、ゆっくりしておいでと笑顔で送ってくれた。
「昌樹はまだしばらく遊んでるだろうし、先にふたりで昼にしよう」
 千里はうなずき、紙袋の口を広げた。
 焼きたてのメロンパンと、小さいころからお気に入りのブルーベリーデニッシュ。もうあたたかくはないけれど、店で感じたのと同じにおいが漂った。青空の下でパンを食べるなんて、久しぶりだ。
「いいにおいがする」
 同じようにパンを広げた大哉が、うれしそうにつぶやいた。
 大哉が選んだのは、千里と同じメロンパン、大きめの調理パンに、甘くないミニクロワッサンがふたつ。
「いただきます」
 ふたりで手を合わせてから、同時にパンにかぶりつく。メロンパンは冷めているようで、中はまだかすかにあたたかかった。さくさくした外側とちがい、しっとりと溶けそうにやわらかい。飲み込んだ後もミルクの甘い香りが残る。
 冷めても美味しいように作ることは大事だけれど、パンはやっぱり焼きたてがいちばんいい。ずっと昔、厨房で岸本が話していたことを思い出した。それはそのまま和人の言葉でもあったのだろう。
 父が作り、母が包んでくれた、焼きたてのメロンパン。秋のひなたにぴったりの、とっておきの昼ごはん。
「美味しい」
 隣で大哉がつぶやいたので、千里はすっかり気分が軽くなった。
「そうでしょ。焼きたてだもん」
「千里のお父さんたちが焼いたんだよな。小さいころから、食べさせてもらったりしてたの?」
「もちろん。店に出てるパンは、ぜんぶ一度は食べたことあるよ」
「いいな」
「いいでしょ」
 思わず胸を張り、満面の笑みになる。
 大哉は何を思ったのか、声を上げて笑い出した。からかうような声ではなかったので、千里もいっしょになって笑った。笑うと体があたたかくなる。焼きたてのパンを食べた時と同じ、ひなたのにおいに包まれる。
 今なら、ここでなら、怖いことなんて何もない。きっと何だってうまくいく。
 千里は気がつくと口を開いていた。
「この前は、ごめんね」
 大哉の笑いがぴたりと止まった。
 千里も一瞬、緊張したけれど、さっきの気持ちに支えられて先を続ける。
「感情的になって言い過ぎちゃった。すごく偉そうだったよね、ごめん」
 大哉は一瞬だけ目をみはり、次の瞬間、大きく首を振った。
「違う。謝らないといけないのは、千里じゃなくて」
「大哉にはもうじゅうぶん謝ってもらったよ」
「でも、千里は悪くないのに」
「ううん。私も言い過ぎだった。謝りたいと思ってたの、あれからずっと」
 口に出してみて、千里もはじめて気がついた。
 大哉に会うのが気まずかったのは、ふたりになるのが嫌だったからじゃない。謝るきっかけをどうしたらつかめるのか、わからなかったからだ。
「……千里、もう怒ってない?」
「怒ってたのは一瞬だけで、大哉が謝ってくれてすぐにおさまったよ」
「すごく失礼なことをしたのに」
「でも大哉は、私のためにしてくれたんでしょう」
 千里の言葉に、大哉は声を失くしたように押し黙った。
「私に似あうと思って靴を選んで、私を喜ばせるために買ってくれようとしたんでしょう。ちょっと……かなり、強引だったけど。それでもみんな、私のためだったんでしょう?」
 押し切られる形で白い靴をはいた時、それが似あっていると気づいた時、千里は間違いなくうれしかった。思いがけないところで、大切なものを見つけられた気がした。さいしょに見つけたのが自分ではなく他人だったことで、うれしさは二倍になった。
 自分のではないと思っていものが、思いもかけず似あったこと。
 それを見抜いてくれた人がいたこと。
「それなのに、ひどいこと言っちゃった。ほんとにごめんね」
 大哉は首を振った。すべてをそこに託すように、ゆっくりと。
 それから、千里を見つめて口を開いた。
「次の木曜日も会ってくれる?」
 ――この人は、私が好きだ。
 言葉で聞くよりも強く感じるほど、まっすぐな視線だった。
「えっと……私で、良ければ」
「――もちろん!」
 間を置かずに叫び声が返ってきて、千里はかるく飛び退いた。
「あ……ごめん。びっくりさせた?」
 大哉がすぐに気づいたが、千里は首を横に振った。
 びっくりしたというより、不意を突かれた。大哉がこんな大きな声を出したのは、はじめてではないだろうか。初対面の時の落ちついた印象が強かったせいか、会うたびに新しい表情を見ている気がする。
 大人びていると思えば子どもっぽくて、隙がないように見えて詰めが甘いこともあり、礼儀正しい一方で、自分の気持ちに引っぱられることもある。
 まだわからないことも多いけれど、大哉自身の人柄については、だいぶ見えてきたような気がする。
 生真面目で、一生懸命で、少し不器用で。そして、千里のことを好きでいてくれる。
「パン、食べよ?」
 無意識に千里は言っていたが、その声はどこかあせっていた。そのことに気づいてさらにあせったけれど、大哉は気づいていないようで、素直にうなずいてパンにとりかかる。
 千里はほっとして、自分も続きを食べはじめた。
 澄みわたる秋の陽射し。ほんのりと甘いメロンパン。隣には大哉が座っている。千里を好きだと言ってくれた人。千里を喜ばせようと必死になってくれる人。
 自分の中に、自分の知らない何かがあるようで、なんだか落ちつかない。それをごまかすようにして、千里はパンを食べ続けた。


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