やきたてをどうぞ [ 3 ]
やきたてをどうぞ

第3話 お姫様の白い靴
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 千里は少しだけ後悔していた。
 木曜日はベーカリー〈ありす〉の、週一回の定休日。一週間ぶりに、大哉と会う日。
 先週と同じように、千里は学校帰りに駅前でバスを降りた。バスターミナルが地下にあり、そこから階段を上がって外に出ると、大きな木のそばにベンチが並んでいる。近くに飲食店や服屋が多いこともあり、この時間は学生が多く集まっている。大哉との待ちあわせ場所はそこだった。
 階段を上りながら、今朝のことを思い出してため息をつく。

「千里。今日は木曜日だけど、まっすぐ帰って来る?」
 理絵の問いかけに、お弁当を包む手が止まった。
「……なんで?」
 ――まさか、と思う。
 大哉の来店の日、理絵はすでにパートに出かけていたし、和人と岸本にも聞かれていなかったはずだ。木曜日に会うと約束した時は、わざわざ店の外まで出ていた。カフェでの会話にいたっては、《ありす》の者に聞かれる危険はゼロだった。
 だから千里は平静を装って、止まっていた手を再び動かし始めた。
「昌樹がね、友達を連れてくるんだって。うるさいだろうけど、ジュースくらい出してあげてくれない?」
 弟の昌樹は、千里より七つ年下の小学三年生。外遊びのほうが好きなようだが、たまに家で遊ぶ時は五、六人は仲間を連れてくる。
 理絵は夕方にはパートに出るので、子どもたちを気づかうのは千里の役割だった。といっても、理絵の言うように飲み物とおやつを出して、近所に迷惑なほど騒いでいたらやんわり注意するくらい。いつもなら快く引き受けるところだが、今日はそうはいかなかった。
「ごめん、約束があるの」
 答えながらお弁当包みの結び目をつくる。
 なんとなく、理絵と目を合わせづらかった。
「あらー、友達と?」
 包み終えたお弁当をかばんに入れる。ゆっくり手を引き出してから、千里はうなずいた。
「うん。さおちゃんと図書館で勉強してくる」
「そう。じゃあ、昌樹に自分でするように言っておくね」
「……ごめんね」
 千里があやまると、理絵はそれを打ち消すように笑ってくれた。
 けれど、千里があやまるほんとうの理由を知ったら、どう思っただろう。

 嘘をついたことへの後ろめたさで、千里の足どりはすっかり重くなっていた。事情が事情なのだから仕方ないと思い、それでも嘘は嘘だと自分に反論し、でもやっぱり、ああ言うしかなかったという思いに落ちつく。
 両親には、大哉のことは言いづらかった。婚約と引きかえに店を助けてもらうなんて、和人も理絵も反対するに決まっている。いやそれどころか、子ども同士が何を言っているのかと、笑って問題にもしないかもしれない。
 店を助ける話は、千里はたしかに一度は断った。けれどふたりがこうして会う以上、大哉はそのことを忘れていないだろう。正直に言えば、千里だって忘れていない。
 ――大哉の告白を受け入れれば、両親の店を守ることができる。
 待ちあわせ場所に向かいながら、そのことを考えていないと言ったら嘘になる。

 重い足を引きずって待ちあわせ場所へ行くと、大哉はもう待っていた。今日も千里とはちがって私服姿だ。
「お待たせ」
 小走りで近寄って、かるく手を振る。
 少しうつむいていた大哉は、顔を上げて千里を見ると、すぐに笑顔になった。
「ありがとう。来てくれて」
 そう言う大哉の頬が、かすかに紅潮していることに気がついて、千里までなんとなく赤くなった。
「どこに行こうか?」
 だまっているのが怖くて、急いで聞いてからふと考える。ほんとうに、どこに行くのだろう。
 首をかしげて見上げると、大哉は笑顔のままでこう答えた。
「千里はどこか、行きたいところある?」
 別にどこでも。と答えようとして、千里は口を閉じた。
 彼氏を持ったことのある友人たちの、体験談を含んだアドバイス。『どこに行きたい?』や『何が食べたい?』と聞かれた時、『どこでも』『何でも』とだけは答えてはいけないと。成功したいのならば、無理やりでも答えを用意するべきだと。
 別に成功したいわけではないけれど、『どこでも』という答えはたしかに失礼だと思う。相手が彼氏や、彼氏になる可能性がある人でなくても。
「じゃあ、とりあえずこの中に入らない?」
 千里は駅のそばのデパートを指して、無難な答えに落ちついた。

 デパートと言っても正確には百貨店ではなく、若い世代が好む店を集めた商業施設だ。服や雑貨の他に、書店、CDショップ、飲食店など、一通りは集まっている。先週ふたりが使ったカフェも、この建物の一階にあった。
「千里は普段、どんな服を着てるの?」
 特に買い物のないふたりは、上の階から順に店を見てまわることにした。大哉が千里に聞いたのは、書店や雑貨屋のある三階をまわり終え、レディースファッション中心の二階に下りた時だった。
「……急になんで?」
「だって、今日も制服だし、先週もそうだったから」
「店に来たときは私服じゃなかった?」
「あー、そうだけど、でもあの時はエプロンしてたし、店番の時の服と、出かける時の服は同じじゃないだろうし」
 千里は考えながら、左右にあふれている洋服を見まわした。が、千里の私服と重なるような、ぴったりの例は見つからない。視線を一周させてもどってきた時、心の中で、あ、とつぶやいた。
「大哉の服にちょっと近いよ」
「え? 俺?」
 今日の大哉は、黒のジャケットにアイロンが効いた白いシャツ、濃い色のデニムという服装だ。
「私服なのに制服っぽいっていうか。ジャケットとかシャツとか、きちんとしたのが多くて、色もけっこう……おとなしめで」
 明るい色の服は、ほとんど持っていなかった。多いのは黒、白、グレイのモノトーン、加えて紺色か茶色。それ以外はせいぜい、制服と同じ濃い緑。
 デザインもシンプルで、ひらひらと飾りのついたものや、袖がふくらんだり裾が広がったりしたものはない。スカート丈は膝まであるものばかりで、襟ぐりもけっして大きくは開けない。
 昔から、『大人っぽいね』『しっかりしてるね』と言われることはあっても、『かわいいね』と言われることはまずなかった。それは主に内面の話なのだろう。生真面目な父親にしつけられ、年の離れた弟がいることもあって、お姉さん役にまわることが多かった。性格がそんなふうだから、外見も実際より大人びて――堅苦しく見えているような気がして、いつの間にか、地味な服ばかり選ぶようになっていた。
「靴も?」
 大哉がそう続けたのは、ちょうどふたりの真横に、靴屋があったからだろう。
「うん。黒と茶色ばっかり」
 と言っても、それほど多くは持っていない。今はいているローファーは、制服の緑に似あう濃い茶色だ。
 これからが秋本番という季節なので、靴屋の店頭には、新作のブーツがたくさん並んでいる。ふたりは眺めながらゆっくりと通り過ぎ、横にあるパンプスの棚へと移動する。
「だから、秋と冬は選びやすいんだよね。探さなくても、黒と茶色がいっぱいだから」
 適当に、目についたものを手に取ってみる。黒い無地のデザインで、ストラップの他に飾りは何もついていない。少し地味と言えばそうだが、千里の服にはこれくらいがちょうどいいのだ。
「白い靴とかははかないの?」
「ぜんぜん。お店にいくらあっても、ほとんど見向きもしないし」
 そういう靴は、女の子らしい服が似あう、ふんわりとかわいい子がはくものだ。親友の沙緒梨(さおり)がまさにそんなタイプだが、千里は間違ってもそれには当てはまらない。そう思って、はじめから素通りしてしまう。
 千里がそう語る間、大哉は無言で見つめていた。そして聞き終わると、黙って靴の棚を見わたし、ひとりごとのようにつぶやいた。
「……白も似あうと思うけど」
「え?」
「たとえば――」
 秋のはじまりなので、白い靴はそれほど多くは並んでいない。
「これなんてどう?」
 そんな中から大哉が選んだのは、スエード素材のバレエシューズだった。全体は白の無地で、縁どりと甲で結んだリボンがベージュ。シンプルな色づかいが清楚で、ぺたんとした形がかわいらしい。
 大哉が差し出した靴を見て、たしかにかわいいと千里も思った。
 思ったけれど、真剣には取りあわずに、笑って流そうとした。
「まさか。私がいちばん選ばない靴だよ、それ」
「でも似あうと思うよ」
「……似あわないって」
 まじめな顔で大哉が言うので、千里も少しむきになってしまった。
 白い靴なんて、一度も買ったことはない。そういえば、中学校の運動靴が白かったと、たったいま思い出したくらいだ。それくらい縁のない色なのだ。
 しかも、バレエシューズなんて――千里がはいたって、友達の靴を借りたようにしか見えないだろう。
「ぜったい似あう」
「ぜったい似あわない」
 お互いに意固地になってにらみ合う。こうなるともう、ただの押し問答だ。
「じゃあ、試しにはいてみなよ。鏡を見たらわかるから」
 不意をねらうように大哉が言って、千里は一瞬、返事につまった。
「いい――どうせ似あわないんだから、時間がもったいない」
「それははいてみてから言って。――すみません、これ試着できますか?」
 そばを通った店員に、大哉が素早く声をかける。
 止めようとした時にはもう遅かった。愛想のいい店員が、笑顔で中へうながしてくれる。大哉が手にしていたものは大きめだったので、わざわざ他のサイズまで出してきてもらった。大哉が礼を述べ、ゆっくり選ばせてほしいと遠まわしに伝えると、店員はにっこりして離れていった。
 正方形の、高さのないソファを前に、千里は呆然と立っていた。そのそばで、大哉がうれしそうに笑っている。
「ほら、座って」
 ここまでしてもらって、まだ突っぱねるのは逆にはずかしい。千里はしぶしぶソファに腰かけて、はいていた茶色のローファーを脱いだ。
 大哉はカーペットに膝をついて、置いてあった靴の箱を開ける。まるで、接客に慣れた店員のようだ。
「どのサイズ?」
「……えっと、M」
 大哉は示された箱を開け、中の靴を片方ずつ取り出した。もちろん、先ほどとまったく同じ、白いバレエシューズだ。
 ため息をつく千里に向きを合わせて、大哉は両手で白い靴を差し出した。
「どうぞ、お姫様」
 あろうことか、そんな台詞までついてくる。
 くだらない冗談、と一蹴したいところだった。けれど、姿勢を低くして、てのひらで靴を示す大哉には、その台詞は怖いくらい似あっていた。似あいすぎて冗談に聞こえなくて、千里は頬が熱くなるのを感じた。
 それでも冷静になって靴を引き寄せ、ソックスの足を片方ずつ入れてみる。少なくとも、サイズはぴったり合うようだった。
 けれど自分の足元に見慣れない色があるのは、どうしても落ちつかない。
「ほら、立って見てみなよ」
 商品棚の横にある鏡を大哉が示したので、千里は立ち上がってそちらへ向かった。
 鏡は背の低いものだったが、少し離れて覗き込めば、じゅうぶん全身を見ることができた。その一歩手前に立ち、足元を見つめてみる。
 靴そのものは、ほんとうにかわいい。まぶしいような純白なのに、素材のせいか目にうるさくは感じない。リボンも細くてひかえめだし、平たい形も雰囲気にあっていた。正直に言えば、千里はかなり気に入ってしまった。
 けれど、こうして全身を見てみれば――深緑の制服の中で、白い靴はあまりにも浮いていた。しかも、そのいちばん上にあるのは、見飽きた自分の顔だ。
 千里はため息をついて大哉をふり返った。
「ぜんぜん似あわないじゃない」
「いや、似あってるよ?」
「うそだ。足首から下だけ、付け替えたみたいだよ」
「それは制服に合わないだけで、千里には似あってるよ」
 大哉が笑顔で見つめてくるので、千里はもう一度、鏡の中の自分を見た。ブレザーとスカートを頭の中で消して、自分と靴だけを見比べてみる。骨が折れたけれど、できないことではなかった。
 そうやって自分を見てみて、千里は無言になってしまった。
 黒いソックスの脚に、清楚な靴はよく馴染んでいた。特に太っても痩せてもいないけれど、脚はどちらかというと細いほうだ。そういえば友達にも、ハイソックスが似あうと言われたことがある。白いバレエシューズは、その足元を自然に収めていた。
 つまり――うぬぼれてもいいのなら――何の違和感もなく、似あっているのだった。
 千里に、白い靴が。
「何か反論は?」
 余裕たっぷりの大哉の声に、千里はすぐに振り向いた。満足そうな、勝ち誇ったような笑顔がそばにある。
「……ない」
「言っただろ?」
 大哉は実物の千里にそう言って、鏡の中の千里に笑いかけた。
 白い靴をはいたのなんて、たとえ試着であってもはじめてだ。いつもなら、ぜったいに選ばない。それどころか、さいしょから目にもとめていない。あれは自分の靴ではないと、いつも決めつけていたから。
 それが似あっている自分を前に、何かを間違えたような気まずさを感じる。けれど同時に、新しいものを見つけたようなうれしさもある。
 大哉はどうして、この靴を自分に選んでくれたのだろう。
「気に入った?」
 大哉がほほえみ、千里はうなずく。
「良かった。じゃあ決まりだね」
 え、と声を上げる間もなく、大哉が次の言葉を発していた。
「すみません、これいただきます」
「――ちょっと!」
 店員がやってくる前に、千里はあわてて叫んだ。
 試着しておいて申し訳ないけれど、これを買えるお金は持ちあわせていない。たとえ足りたとしても、貴重なお小遣いの大半を、この一足に当てるつもりはない。
 蒼白になった千里に対し、大哉は落ちついた顔で言った。
「いいよ。俺が買うから」
「……え?」
「今日も来てくれたから、お礼のプレゼントってことで」
 千里は耳を疑った。高級品ではないけれど、決して安くもない品なのだ。高校生が通りすがりに出せる金額ではない――少なくとも、千里の感覚ではそうだ。コーヒーをごちそうになるのとは訳がちがう。
「いいよ。お礼なんていらない」
「遠慮しないで。せっかく似あうんだから、もったいないよ」
「遠慮なんてしてない。こんな高いもの、買ってもらえない」
「そんなこと気にしなくていいって」
 ああ、まったく話が通じていない。
 恋人でもない、友達でもない、それどころか、知り合ってから三度しか会っていない。そんな相手に、物を買ってもらえるわけがない。
 千里がとくべつ堅いのではなく、ごく一般的な常識のはずだ。それなのに、雪城大哉にはわからないのだろうか。
 抵抗しても聞き入れられず、先ほどの店員が来てしまう。大哉がはずんだ声で、これをくださいと伝えている。
「――いいかげんにして」
 押し殺した声を出すと、大哉と店員が同時に振り向いた。
 千里は無言でソファに歩き、置いてあったローファーを引き寄せる。白い靴を脱いで、いつもの通学スタイルにもどる。
「ちさ――」
「今日はやめておきます。ごめんなさい」
 大哉の呼びかけを無視して、店員のほうに頭を下げる。白い靴をすばやく箱に入れ、他の箱の上に積んで押し出すと、うろたえる店員を後に店を出た。
 通路を足早に歩いていると、思ったとおり、大哉の声が追いかけてくる。
「千里」
 追いつかれるまでは無視して歩き続ける。
「ごめん。何がいけなかった?」
 大哉が隣に並んでからも、千里は黙って歩き続けた。左右の景色がどんどん変わっていく。通路を曲がって、靴屋からだいぶ離れたところで、ようやく大哉を見た。
「私は、大哉の彼女じゃない」
 そう言ってまっすぐに見すえると、大哉の視線が少しだけ動いた。
「……知ってる」
「だったらわかるでしょ。私たち、会うのは今日でまだ三度目なんだよ。靴なんて値の張るもの、ううん、すごく安いものでも、買ってなんてもらえない。私はそんなに図々しくない」
「でも、千里がほしいって言ったわけじゃない。俺が千里にあげたかっただけで」
「ほら、みんな自分のためなんでしょ。それを私に押し付けないで」
 仮にも人前だったから、大きな声は出さなかった。立ち止まったり、あからさまに足を速めたりもしなかった。
「私は“彼女”じゃない。似あう靴を選んで、試着までさせて、高いものを買ってあげれば、私が喜ぶと思った? 私は、そんな都合のいいお人形じゃない」
「――ごめん!」
 叩きつけるような声に、千里は思わず足を止めた。買い物に来た客の何人かが、驚いてふたりのほうを見る。せっかく千里が抑えて話していたのに、これでだいなしだ。
「ごめん、千里。ごめん……」
 手に何かの感触があり、千里は見下ろして呆然とした。
 大哉の手が伸びてきて、千里の手を握っている。引き止めるのではなく、となりあわせに立ったままつながれている。
「すごく失礼なことした。ほんとに、ごめん」
「……離してくれる?」
 握られた手を持ち上げ、軽く振って主張する。何事なのかと見つめてくる他人の視線が痛い。
 手を握ってきたのは無意識だったのか、大哉は目が覚めたように急に離した。
 そしてまた、うなだれるようにつぶやく。
「ごめん……」
「もういいよ、わかってくれたんだったら」
「ほんとごめん。自分のことしか考えてなくて……」
「もういいってば」
 少し語気を強める。うっとうしがられていると思ったのか、大哉はうつむいて黙ってしまった。千里のほうが悪いことをしているような気分になる。
「あの、ほんとうにもういいから」
 あらためて言ってみて、自分も感情的になっていたことを知る。
 少し、言い過ぎたかもしれない。人のすることがいったん気にかかると、ついお説教めいたことを言ってしまうのは悪い癖だ。
 けれど大哉はまったく恨んでいないようで、ひたすら一人で謝り続けていた。
「ごめん……千里」
 同じ言葉を繰り返す大哉を見て、千里はあっけにとられていた。ここまでうろたえさせるほど、自分はきつい言い方をしたのだろうか。強引に靴をすすめた大哉と、目の前にいる落ちこんだ少年は、ほんとうに同じ人だろうか。あまりの豹変ぶりに、返事も忘れて見つめることしかできなかった。
 怒りなんて、とっくに消えていた。


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