やきたてをどうぞ
第2話 木曜日の放課後に
大哉でいいですよ、と雪城大哉は言った。
「敬語も使わなくていいですから」
「はい……」
〈ありす〉のある住宅街から、バスで五分。ふたりは、駅前にある小さなカフェの中にいた。大哉の来店から三日間が過ぎている。
木曜日は〈ありす〉の定休日。つまり一週間に一度だけ、千里が放課後を自由に使える日だった。その日にふたりは駅で待ちあわせて、大哉の提案でこの店に入った。
窓際で向かい合うふたりの前には、それぞれコーヒーのカップがひとつずつ。ごちそうすると大哉が言い張るので、千里はいちばん安いものを選び、大哉もそれに合わせた。千里のカップには、ミルクと砂糖がたっぷり。大哉のカップには、ミルクが少しだけ入っている。
千里は学校の帰り道なので、緑のブレザーに足元はローファーという服装だ。大哉は、どういう足でここに来たのかわからないが、三日前と同じく私服だった。やはりあの時と同じ、この時期にしてはきちんと着込んだ服装をしている。
「朝見さんは高校一年ですよね」
――どうして知っているの?
はじめて会った時から何度も浮かべた疑問だったので、千里はあえて尋ねなかった。大哉には、わからないところが多すぎる。
「大哉……くんは?」
「同じです。早生まれだから、まだ十五ですけど。朝見さんは十六?」
千里はうなずき、おずおずと切り出した。
「あの……それなら、大哉くんも敬語はやめて。私だけていねいにされると、ちょっと辛い」
大哉はほほえんで答えた。
「わかった、千里」
……名前のことまでは頼んでないのに。しかも、いきなり呼び捨てだ。
「それで本題だけど」
千里は無意識のうちに背筋を伸ばした。
『どこか別のところで、あらたまって話したい』
あの突然の来店と“提案”の後、大哉は千里にそう言った。もちろん千里は、店番の途中で店を出ることはできない。それならばと、大哉は今日の約束を持ちかけてきた。
だから千里は、大哉のことも、“提案”に関することも、詳しくは何も知らないのだ。大哉がなぜ、〈ありす〉の窮状を知っているのか。なぜ、それを助けようとしてくれるのか。
……なぜ、交換条件として、千里と自分の婚約などを挙げたのか。
「まず、お金のことだけど」
大哉はまず、具体的なところから切り出した。
ふたつのカップはどちらも手をつけられず、もう冷めたのか湯気も出ていない。
「ユキシログループって、知ってる?」
「……ユキシロ?」
西洋風のお城に、雪が降り積もっている光景が浮かんだ。あれはたしか、CMだ。商品やお店ではなく、それらを生み出している企業のCM。モチーフの由来は、社名にもなっている経営者の名前だそうだ。“雪”と“城”。
千里ははっとして顔を上げた。
そうだ。大哉の苗字は。
「雪城って……あの、ユキシロ?」
「そうだよ」
ユキシログループというと、高校生の千里でも知っている大企業だ。事業の幅は限りなく、支社や子会社も無数にあり、海外にも進出している。
「ユキシロを創ったのは、俺の何代も前の先祖らしい。いまどき流行らない世襲制で、五年前から俺の父親が経営をやってる」
どこか他人事のように話す大哉を、千里は呆然として見つめた。
言われてみれば、うなずける点がないこともない。大哉の落ちついた雰囲気、ていねいな話し方、きちんとした身なり。そのどれもが育ちの良さを感じさせる。きっと幼いころから、ぬかりのない環境で育ってきたのだろう。
しかし、日本を代表する大企業は、千里にとってニュースや新聞、あるいはCMの中のものでしかなかった。それと縁のある人――縁どころか、現社長の息子――が目の前に座っているなんて、どうしても実感できない。
「両親は仕事柄、海外を飛びまわってるし、俺には兄弟もいないから、今は日本でひとりで暮らしてるんだ。ひとりって言っても、いろいろ世話してくれる人たちはいるけどね」
千里にはとうてい、想像もつかない世界。“かしずかれた”という形容はこういう人に使うのだろうかと、ぼんやり考える。
それから、大哉が持っているもの、千里が持っていないものについて考える。両親の店にとって今いちばん必要な、資金というもの。商売のことは何も知らないけれど、じゅうぶんなお金があれば、可能性がひとつ拓けることはわかる。
「だから俺には、自由にできるお金がそれなりにあるんだ」
大哉の話が核心にせまる。
千里はカップを両手で握りしめた。手をつけないままのコーヒーは、すっかり冷たくなっている。
「条件は、私が婚約することだけ?」
「そう。他には何も求めない」
「本当にそれだけで、お店を助けてくれるのね」
「そうだよ。悪い話じゃないと思うけど」
「うん、そうだね」
千里はうなずいて、間を空けずに続けた。
「でも、お断りします。せっかくのお話を申し訳ないけど」
今度は大哉が呆然とする番だった。
断られるとは思わなかったのか、次の反応がうまく出てこないようだった。
「三日間、よく考えたの」
大哉が言い返す前にと、千里は先を続けた。
「詳しいことは知らなかったけど、大哉くんと会ったのはあの日がはじめてで、うちのお店と関係のない人だってことはわかってた。そんな人に助けてもらうなんてできないよ。私ができると思っても、お父さんが許さないと思う。それに私は、そんな理由で婚約なんてぜったいにしない」
大哉が動揺したのが、目に見えてわかった。隙のない人だと思っていたけれど、はじめて素の顔が見えたような気がする。
「千里、俺は――」
「それに!」
大哉の声をさえぎって、千里は叫んだ。
声の大きさに自分でも驚く。全身がこわばって、少しだけ震えているのがよくわかった。
「今の話を聞いてわかったけど、そのお金は大哉くんのじゃなくて、ご両親のものでしょう? 大哉くんがもらったものをどう使おうと自由だけど、私はそんなお金は受け取れないよ」
そんなつもりはなかったのに、責めるような口調になってしまった。大哉を見つめる視線も、しだいに強くなっていく。
「このコーヒー代も、ちゃんと払うから。四百円だよね?」
「――ま、待って!」
かばんを探ろうとした千里の腕を、大哉の手がつかんだ。足元に手を伸ばした姿勢のままで、千里は固まってしまう。大哉も、その千里に向かって不自然に身を乗り出したままだ。
千里はつかまれた腕を見て、次につかんできた大哉を見て、軽くにらみつけた。
何不自由なく育てられて、大金だってお小遣いから気まぐれに出せる、わがままで苦労知らずのお坊ちゃん、あなたを軽蔑していますという気持ちをこめて。
大哉の視線が揺れ、千里をつかむ手がゆっくりと離れた。千里はかばんをあきらめて姿勢を元にもどした。
「……ごめん」
つぶやかれた言葉は弱々しいもので、千里ははじめて、大哉が同学年の男の子だと実感した。
その様子に胸が痛まなくはなかったけれど、先ほどの強い気持ちを思い出す。
「とにかく、そういうことだから……」
「いや――待って。俺はまだ、話の半分しか説明していないよ」
机に乗りかかるようにして、大哉は先を急いだ。
「俺は、遊びで千里の店を助けたいわけじゃない。――たしかに、親のお金でっていうのは、間違ってたかもしれないけど」
「遊びじゃなかったら、何なの?」
「だから、それをこれから説明するから。俺が千里の店を、助けたいと思ったのは……」
目を見開いて、訴えるように話す大哉を見て、千里の胸は騒いだ。
冷たくなったコーヒーカップを、もう一度握りしめる。
「……思ったのは」
ふたりの座る小さなテーブルだけ、まわりから切り離されたようだった。奥の席でおこった集団の笑い声も、カウンターでオーダーを受ける店員の声も、聞こえているのはたしかなのに、なぜか遠かった。
「千里が好きだから。婚約したいと思ったから」
そう言った大哉の目は、まっすぐに千里を見つめていて、少しも揺らぎがなかった。
冷えたコーヒーとは反対に、千里の頬は熱くなる。告白されたのははじめてではないけれど、今まででいちばん緊張した。
こんな、真剣な目で。
こんな他人のいる場所で、それさえも忘れてしまっているような、混じり気のない気持ち。
“遊びじゃない”という大哉の言葉を、信じないわけにはいかなかった。けれど、素直に受け止めるには、わからないことが多すぎる。
「大哉くん、私と同じ学校?」
「ちがうよ」
「じゃあ、別の場所で会ったことがある?」
大哉はゆっくりと視線をはずした。コーヒーカップを持ち上げ、冷めてしまった中身を口に含む。
「どうなの?」
なおも食い下がると、大哉はカップを置き、再び千里を見た。
「あるって言ったら、何か変わる?」
「――だって。私は大哉くんとは、三日前に会ったばかりなんだよ。それなのに、どうしてって思うじゃない」
大哉は遠くを見るように目を細めた。千里を見ているのに、何か別のところを見ているようになる。聞き出すまで譲らないつもりでいたのに、千里はここで怯んでしまう。
大哉が、何かを隠しているのはわかる。けれどそれが何なのか、何のために隠すのかがまったくわからない。
もし、ふたりがどこかで会っていて、千里がそれを忘れているのなら、教えてくれたっていいはずなのに。悪いのは、忘れてしまった千里のほうなのだから。
千里もあらためて、大哉の顔を見つめた。
顔を合わせて話したことがあるのなら、忘れてしまうことはないと思う。よほど慌しかったか、よほど印象に残らなかったか、よほど昔のことでもない限り。
――別の場所で、会ったことがある?
同じ質問を自分にもしてみたけれど、答えが出ることはなかった。
「とにかく」
大哉は開き直るように沈黙を破った。やはり、答える気はないらしい。
「俺が千里の家を助けたいのは、千里のことが好きだから。お金の話じゃなくて、その点から考えてみてほしいんだ」
「そんなこと……言われても」
先ほどよりもずっと、むずかしい話になっていた。大哉のことは、ほとんど何も知らないのだ。それで告白――それだけでなく、求婚までされてしまった。さらに店のことまで絡んでいるから、純粋に好き嫌いの話だけでは割り切れない。
今すぐここで、ごめんなさいと頭を下げるか。
それとも――。
「別に、すぐに答えがほしいわけじゃないから」
めぐらせていた考えが、大哉によってあっさり止められた。
「むしろ、すぐに答えないでほしい。ちゃんと考えてくれたほうが、俺だってうれしい」
「……じゃあ、どうしたら」
「来週の木曜日も会ってほしい」
言うことは決めてあったのか、大哉はかぶせるように答えた。
「できれば次の週も、その次の週も。何回か会って、どうするのかよく考えてほしい。千里の答えが出るまで待つから」
『まずはお友達から』というのに似ているかもしれない。千里は、告白の返事にこれを使ったことはなかった。今までの相手は同じ学校で、ある程度は親しく話したことがあって、考える時間をもらう必要はなかったから。つきあっていけると思えない相手に、返事を先延ばしすることはできない。
けれど大哉のことは、ほとんど何もわかっていない。
何よりも、『好き』と言ってくれた時の、あの目の色。この場で突き放すのはどうしてもためらってしまう。
「いい……?」
沈黙が長かったので不安になったのか、消え入りそうな声で大哉が聞いた。
数秒ためらってから、千里はようやくうなずいた。
「とりあえず、次の木曜日ね」
途端に、大哉の顔が輝くように笑う。その笑顔は素直で、少し幼くて、今まで見る大哉の中でいちばん明るかった。
千里はため息をつくと、再びかばんに手を伸ばした。
「でも、コーヒー代はちゃんと出すから」
「……いいって言ってるのに」
大哉の笑顔が消え、気の抜けたようなため息が出る。
「コーヒーくらいおごらせてよ。たったの四百円だよ」
「四百円するんだよ。いくら数が小さくてもお金はお金なの。馬鹿にしてるといつか泣くよ」
「千里って、十六歳なのに奥さんみたいだね」
「な……」
絶句して財布を探すのも忘れていると、大哉がこらえきれずに吹き出した。
「な、何それ! 何ひとりで笑ってるのよ」
「あー、ごめん。しっかりしていてかわいいなあと思って」
先ほどの三倍は長く絶句した。その千里を見て、大哉はさらにおかしそうに笑い出す。
顔が真っ赤になるのがわかって、あわてて首を振った。
もしかして、もう攻防戦は始まっているのだろうか。しかもこの調子だと、千里がさっそく引っかかってしまったことになる。
「とにかく飲もう。――四百円、後でちゃんともらうから」
笑顔のままで大哉が言うので、千里はなんだかどうでもよくなって、落ちついて席に座り直した。
やっと口をつけたコーヒーは、やはり完全に冷めてしまっていた。けれどミルクと砂糖の甘さはそのままで、混乱した頭を落ちつけてくれるような気がした。
「それと、俺のことは大哉でいいから」
自分もコーヒーを飲みながら、大哉は何気なく言った。ごていねいに頭まで軽く下げる。
「よろしく、千里」
「は、はい……」
千里はあわててカップを置き、頭を下げ返した。何が『よろしく』なのか、よくわからないまま。
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