やきたてをどうぞ [ 1 ]
やきたてをどうぞ

第1話 夕方のお客様
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『ちーちゃんのうちは、パン屋さんになるのよ』
 母が聞かせてくれたその話が、千里(ちさと)にとっていちばん古い記憶だ。
 と言ってもいちばんは話そのものではなく、そのころ生まれてはじめて母から離され、祖父母の家で泣いていたことのほうなのだが。
 お家に帰れるよとあやす祖母に送られ、よくがまんしたねと母に迎えられた時のことは、よく覚えている。千里がいない間に、家のそばには、絵本の世界のような小さなお店ができていた。まあたらしいトレイに焼きたてのパンは載っていなかったけれど、父は試作品を持ってきて、千里に食べさせてくれた。
『千里が、この店のさいしょのお客さんだ』
 小さな子どもが好む形もトッピングもない、シンプルな食パンだった。けれど広がるにおいがあたたかくてやさしくて、千里は泣くのをやめて口に運んだ。
 パンが小麦粉から作られると知ったのは、それから何年も経ってからだ。それなのに、生えそろっていない歯でかんだパンからは、ひなたで育った生き物のにおいがした。
 あれからずっと、千里の家でそのにおいが消えることはない。
 十六歳になった今は、それを例えるものをいくつでも並べることができる。
 日の光を吸いこんだ、ふかふかの羽根ぶとん。
 冬の日に雪を見ながら飲む、うすい膜の浮いたミルクティー。
 転んで足をすりむいた時、抱き上げてくれた母のてのひら。
 あげていけばきりがないけれど、結局それらは、ひとつの例えにまとめられる。
 ベーカリーはいつもひなたのにおいがする。
 太陽がのぼる前でも、しずんだ後でも、くもり空の日でも雨の日でも、家に帰ればいつも、うたた寝したくなるような空気がつつんでくれる。

 学校から帰って、かばんを置いて着替え、店のほうに向かう千里の足どりは軽かった。毎日六時限まである授業の疲れも、この時はもうやわらいでいる。脇に抱えた数学のテキストのことを、忘れたわけではないけれど。
 階段を下りると一度屋外に出て、外履きに履きかえる。一人分しか通る幅のない通路を抜け、塗装のはがれかけたドアを開けると、その向こうが厨房だ。勉強道具を左手に持ち替え、右手を顔の高さまで上げる。
「――年内になると思う」
 ドアごしに聞こえてきた声に、叩こうとした手がそのまま固まった。
「……そうですか」
「正確に決まったら、あらためて連絡する」
「わかりました」
 持ち上げたままの右手から、体温がどんどん抜けていく。
 今すぐここから立ち去りたい。
 これ以上、この話を聞きたくない。聞いてはいけない。
 耳をふさぐ代わりに、千里は軽く目を閉じた。手を下ろそうとした瞬間、肩に何かが触れる。
「おかえり」
 やわらかいメゾソプラノの声。振り返ると、母の理絵(りえ)がエプロン姿で立っていた。つい最近、千里が背を抜いてしまったので、その目線はほんの少しだが下にある。
「ちょうどお母さん、上がるところなの。すぐ引き継ぐから、いっしょに入って」
「うん」
 理絵が代わりにドアを叩き、中に呼びかけてくれた。
「お父さん? 千里が帰ってきたわよ。入ります」
 返事を待たずに、理絵は厨房のドアを開けた。
 小麦粉のにおいがふわりと広がり、千里のそばまで届く。決して澄んだ空気ではないのだが、それでもここは心地良い。
「おかえり、千里ちゃん」
 職人の岸本(きしもと)が、作業する手を止めて声をかけてくれた。千里も笑ってただいまと返した。立ち聞きしていたことを勘ぐられませんように、と祈りながら。
「おかえり」
「ただいま」
 父の和人(かずひと)は、仕事の顔のまましっかり千里を見て言う。千里も和人のそばで立ち止まり、同じように返した。歩きながらや何かしながらあいさつしたり、相手の目を見ずに声をかけてはいけない。小さいころから、父に厳しく言われてきたことだった。
 厨房の奥には扉のない出入り口があり、その向こうが売り場になっている。
 そちらへ向かいながら、千里はさりげなく厨房を見回した。広くはないが、昔はここに四人の職人がいた。和人と岸本と、他に別の二人だ。売り場にアルバイトを入れていたこともあった。
 開店からこれまでの十数年間、ベーカリー〈ありす〉には何人もの人が出入りしてきた。みんな、この店が好きで、ここのパンが好きで、作る人も、売る人も、買う人も、食べる人も、いつも笑顔だった。まるでひなたの中にいるみたいに。
 今は、厨房には店主である和人と、開店当時から勤める岸本の二人だけ。売り場には千里と理絵が交替で立っている。
 そして、客の姿は、ない。
 かごには冷めたパンがそのまま残り、入り口に付けた鈴が鳴らされる気配はない。
 売り場のすみの、小さなテーブルにレジ台を載せたところが、千里の持ち場だ。交替する理絵を見送り、持ってきた勉強道具を置くと、小さな椅子に力なく座り込んだ。
 ここは、いつでもひなたのにおいがする。
 けれどもうすぐ、この場所はなくなってしまう。

 店で課題を片付けるのが、千里の日課だった。一人で待っていても客は来ないのだ。悲しいけれど、何もしないで嘆いているよりは、勉強で気を紛らわすほうがまだ良かった。
 今年から通っている高校は、公立でそれなりの進学校だ。中学ではちゃんと授業を聞き、試験前だけ勉強すれば良かったが、今はそうはいかない。毎日のように出る大量の課題に加え、授業の予習復習も欠かせない。英語と数学は特に難所だ。
 複雑な数式相手に前のめりになってしまい、千里はあわてて姿勢を正した。座る時はすっと背筋を伸ばして、足をそろえる。猫背は視力を悪くするし、見た目もだらしない。これも和人にしつけられた。
『――年内になると思う』
 計算につまると、さきほど聞いた和人の声がこだまする。
 あんなににぎやかな店だったのに。あんなにたくさんの人がいたのに。こんなにあたたかい場所なのに。
 千里がさいしょに気づいたのは、どれくらい前だろう。店に立つようになったのはつい最近だから、売り上げが落ちはじめた時のことは知らない。ただ、売れ残りのパンが多くなったな、とは感じていた。まだ中学生だった時だ。
 それからしばらくして、店に出すパンの種類が減った。アルバイトの学生が就職してやめていくと、その後に新しい人は入ってこなかった。岸本以外の職人も、気がついたらいなくなっていた。そのころには、〈ありす〉へパンを買いにくる客は、目に見えて少なくなっていた。
 千里が高校に入学すると、理絵は売り場を千里に任せて、働きに出るようになった。
 和人も理絵も、具体的なことは何も千里に話さなかった。それでも千里は少しずつわかってきて、私立の高校を受けたいとは一度も言わなかった。入学したらアルバイトをしようと考えたこともあった。少し年の離れた弟、昌樹(まさき)が、両親のむずかしい話を聞かないように、さりげなく気を配った。
 けれど、まだ大丈夫だと信じていた。あるいは、甘えていた。
 さきほどの、和人と岸本の会話を聞くまでは。
 千里はあわてて首を振り、あらためてシャーペンを握った。両親がきちんと話してくれるまでは、気づいていないふりをしなければ。
 ――きちんと話してくれる。その日を想像すると、涙が出そうになった。それは、〈ありす〉がなくなってしまうことが、動かしようのない現実になってしまう日だ。
『ちーちゃんのうちは、パン屋さんになるのよ』
 千里が生まれる前から、両親が育んできた夢。物心ついた時からの千里の家。ひなたのにおいのするやさしい場所。なくなってしまうなんて考えたくない。
 助けて。お父さんとお母さんを、この店を、誰か助けて。
 私にできることなら、なんでもするから。
 鈴の音が響きわたり、店のドアがゆっくりと開いた。千里はとっさに顔を上げ、笑みをつくった。
「いらっしゃいませ」
 入ってきたのは少年だった。背は高いほうだろうが、年は千里と同じくらい。自然に伸びた背筋と、さらさらの髪が清潔そうな印象を持たせる。制服ではない茶色のジャケットという、十月はじめにしては少し早い服装だった。
 めずらしいな、と思う。男性客がひとりで来ることはめったにないのだ。もう少し遅くなると、年配のサラリーマンが来ることはあるけれど、こんな、少年と言ってもいい若い男の子は来ない。ごくたまに、制服姿の集団が買い食いに寄るくらいで、一人で来ることはほとんどありえない。
 〈ありす〉はその名前からもわかるように、はっきりと女性が好む店だ。外装には煉瓦をあしらい、店内ではドライフラワーやぬいぐるみがよく目につく。パンを載せるかごも、値段が書かれたカードもいちいちかわいらしく、千里の頭上には、一時間おきに人形が踊るからくり時計がある。開店したころ、理絵が自分の好みでそろえたそうだ。
 千里と同い年くらいの男の子なら、こういう店に一人で入るのは、“はずかしい”のではないだろうか。
 しかし、めずらしい夕方の客は、ばつの悪そうな表情も見せず、ドアからまっすぐ歩いてきた。――千里に向かって。
 商品であるパンには目もくれず、予定していたように向かってくる彼に、千里は身構えた。冷やかし、というたぐいの客だろうか。こんな、小さな店に? そんなことをする人には見えないけれど。
朝見(あさみ)千里さん?」
 テーブルの前で立ち止まると、少年は千里の名前を言い当てた。
 あまりにもびっくりして、何を言われたのかわからなかった。
 びっくりしたままうなずくと、少年は笑顔になった。とっておきの宝物を見つけたり、むずかしい謎が解けたりした時の、子どもの顔。
「良かった――雪城(ゆきしろ)大哉(だいや)です、はじめまして」
「はじめまして」
 おうむ返しをしてから、千里はあわてて立ち上がった。立っている人――特にお客さん――と話す時に、座ったままでいてはいけない。和人に教わったことを、守らずにいてしまった。
 雪城大哉は、もう一度ほほえんだ。さっきとは違い、ずいぶんと大人びた表情だった。千里の同級生の少年たちは、“ほほえんだ”などと言い表せる笑顔なんて、まず浮かべない。同い年くらいだと思ったけれど、ほんとうはもっと上なのだろうか。それとも、内面が大人びているのだろうか。
「座ってください。申し訳ないけど、俺は客じゃありませんから」
「はい――いいえ」
 よくわからない返事をしてから、千里ははっとした。
 客じゃない?
「あの、どのようなご用でしょうか」
 大人びた少年を前に、少しだけ気負いしてしまい、いつもよりていねいな言葉を選んだ。ぎこちなく聞こえていなければいいが。
 雪城大哉はほほえんだまま――とんでもないことを口にした。
「失礼ですけど、このお店はもうすぐ閉めなければいけないのでしょう?」
「……え」
 店をもうすぐ閉める。それは、営業時間を終えて片付けるという意味ではないだろう。たぶん、今の千里がいちばん恐れている意味のほう。
 頭の中が真っ白になり、言葉が出てこない。
 雪城大哉のほほえみが、変わらずに前にある。その顔の落ちつきとおだやかさが、わけもなくおそろしく感じた。
「どうして、知って……」
 消え入りそうな声でやっとつぶやく。
 雪城大哉はどう思ったのか、少し急いで先を続けた。
「心配しないでください。部外者で知っているのは、たぶん俺だけです。うわさになんかなっていません」
 千里が動揺したのはそういうことではない。いや、たしかに言われてみれば、その点も心配するべきだった。見知らぬ少年が事情を知っているという事実だけに驚いて、その裏にまで頭が回っていなかった。
 千里の整理がつかないまま、雪城大哉はさらに続ける。
「それと、俺はお店のことには何もかかわっていません。ここに来たのは今日がはじめてだし、君の両親とは会ったこともありません。こんな話をはじめたのは、君にひとつ提案があるからで」
「――提案?」
「お店を助けたいでしょう? 俺は力を貸すことができますよ」
 ――私にできることなら、なんでもするから。
 ――だから、助けて。お父さんとお母さんを、この店を、誰か助けて。
 千里はとっさに、厨房へと続く出入り口を見た。
 のれん越しに見える和人と岸本は遠くにいる。ここで話していても、二人が聞き耳を立てないかぎり聞かれることはないだろう。
 けれども千里は、慎重に言葉を選んだ。
「外でお話を聞けますか?」
 雪城大哉はにっこりする。
「どうぞ」
 うながした手に従い、千里が先にドアに向かう。再び鈴が鳴り、二人は外へ、店の入り口の前に移動した。
「力を貸してもらえるっていうのは?」
 ドアが閉まると同時に、千里は矢つぎ早に聞いた。
 頭の片隅ではいつもの自分が叫んでいる。そんな話、聞くことない。見ず知らずの人なのに、店を助けるなんて怪しすぎる。だまされているだけかもしれない。ううん、きっとそうだ。
 けれど、今の千里はそれを聞き流した。
 力を貸せる――お店を助けられる――ひなたのにおいがするこの場所を、守ることができる。
「もちろん、お金のことです」
 雪城大哉は、あっさりと言った。
「君と君の両親が良ければ、いつでも出します。お店を続けるために必要なだけ。貸すんじゃなく、差し上げます。――ただし」
 最後の言葉を聞いた時、千里は少しだけ冷静になった。
 やっぱりそうだった。会ったばかりの、お店と何の関係もない人が、無償で助けてくれるわけがない。やっぱり自分はだまされていたのだ。
「条件は何ですか?」
 千里が先回りして聞くと、雪城大哉は苦笑した。ほほえみよりもさらに、大人びた表情だった。その顔から再び笑顔にもどり、唇が開く。
 まじめそうな瞳、落ちついた声、ていねいな言葉遣い。
 彼はそんなきちんとした様子で、千里の頭もさっきよりは覚めていた。だから、言われた時はその雰囲気と言葉の落差に、しばらく立ち直ることができなかった。
「君が、俺と婚約してくれるなら」


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